題「十字架の受苦」マルコ15:6-15

 主イエスは、私たちの罪の贖いと救いのために十字架の受苦の道を辿って行かれる。「受苦」とは、物理的、精神的、霊的に苦しみを受けることである。イエスの場合は、自分のためではなく、この地球に生が与えられて生まれてくるすべての罪人のために壮絶な犠牲の死を遂げられるのである。普通の人間が受ける苦しみとは全く次元が違うものである。形容しがたい、重さと深さとがある。

 受難週の木曜日、主が敵に捕縛されたのは、午前3時半から4時頃であっただろう。そのまま彼は、元大祭司アンナスの所に連れていかれた。続いて大祭司カヤパの官邸へと回される。そこで、大急ぎで招集されたサンヘドリン(国会議員)の人々が緊急会議(非公式・公式の2回)を開いた結果、判決が下ったのは、6時頃であった。

 それからローマ総督ピラトの元に引き立てられて行ったのが、7時頃。ピラトは、厄介な宗教的問題で裁判をするのが嫌であったので、イエスがガリラヤ人であることからヘロデ王の所へ彼を送った。

 それがまたピラトの元に送り返されて本格的な裁判が始まることになる。それは7時半頃であったのだろう。なんと一晩に6回のたらい回しのような裁判がなされたことになる。

 さて、過越しの祭の際に、ピラトがユダヤの人々の歓心を買うために、毎年犯罪者の恩赦を行っていた。群衆は、この年、あれだけ騒いでユダヤ人の王としてイエスをエルサレムに迎えながら、手のひらを返すように、盗賊・反乱者バラバを赦すことを求めた。ピラトはてっきり罪なきナザレ人を赦すことを求めるだろうと思っていたがそうではなかったのだ。

 「祭司長たちは、バラバの方をゆるしてもらうように、群衆を扇動した。そこでピラトはまた彼らに言った、『それでは、おまえたちがユダヤの王と呼んでいるあの人は、どうしたらよいか』、彼らは、また叫んだ。『十字架につけよ』。ピラトは言った、『あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか』。すると、彼らは一そう激しく叫んで、『十字架につけよ』と言った。それで、ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした」(11-15節)とある。

 結局、ピラトは民衆の声に負けてイエスを十字架に渡してしまった。「ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った。『この人の血については、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい』(マタイ27:24)とある。

 ピラトのこの芝居がかったしぐさは、子ども騙しであって理屈もなっていない。彼は神の前には責任を逃れられないことを知らなかった。こうして彼は聖書の中に、教会の信仰告白の使徒信条の中に、永久的な汚名を残したことになる。なんということであろうか。

 さて、裁判が下され、イエスはむち打たれ、いばらの冠を被せられ自ら十字架を背負い刑場まで歩まれたのである。それは9時前であった。15章22節以下にこう記されている。

 「イエスをゴルゴタ、その意味は、されこうべ、という所に連れて行った。そしてイエスに、没薬をまぜたぶどう酒をさし出したが、お受けにならなかった(マタイ27:34 十字架につけられる者の痛みを麻痺させる一種の鎮静剤。イエスがこれを拒んだのは、死の苦杯を最後の一滴まで飲みほそうとされたからである)。それから、イエスを十字架につけた。

 そしてくじを引いて、だれが何を取るかを定めたうえ、イエスの着物を分けた(死刑執行役の役得)。イエスを十字架につけたのは、朝の九時ごろであった。イエスの罪状書きには『ユダヤの王』と、しるしてあった。また、イエスと共にふたりの強盗を、ひとりを右に、ひとりを左に、十字架につけた。こうして、『彼は罪人のひとりに数えられた』と書いてある言葉(イザヤ53:12) 「とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした」が成就したのである。

 そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって言った、『ああ、神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ、十字架からおりてきて自分を救え』(14:58 かつて語られた内容、それは建物のことではなく、神殿はイエスご自身のことであり三日後の復活を意味している)。

 祭司長たちも同じように、律法学者たちと一緒になって、かわるがわる嘲弄して言った、『他人を救ったが、自分自身を救うことができない。イスラエルの王キリスト、いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう』。また、一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった」 (15:22-32)。 

 ああ、十字架は受苦である。主はすべてのことをご承知の上で、死を受け入れ、味わい、私たちの罪のために死んでくださったのである。この受難節の時、主イエスの足跡を辿りながら霊想しながら自らの罪にも向き合い、イエス・キリストが成し遂げられた御救いの素晴らしさを改めて確認しようではないか。

 「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののりしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである」(第一ペテロ2:22-25)

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