| 母の日礼拝のメッセージの題として、「不信仰と偏見」とは何事か? 何とも不釣り合いなタイトルである。のちほど関連づけてお話したいと思う。 さて、先回学んだように、ルカによる福音書4章1節から13節の出来事で、荒野の誘惑の後、主イエスはガリラヤ伝道を始められた。民衆に歓迎された最初の時期はあったのだが、主にとって故郷ナザレではそうではなかった。 イエスが会堂でイザヤ書61章(救い主の預言)の御言を読み説教した時、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と宣言した。すると、みなイエスをほめ、またその口から出て来る恵みの言葉に感嘆した。 しかし、「この人はヨセフの子ではないか」(4:22)と彼を信じようとせず、かえって憤慨して彼をがけから突き落とそうとさえしたのだ(29節)。 一般民衆は、メシヤ・救い主は突然天から降りて来て人々を奇跡的に救う存在であると考えていたのである。イエスのように大工の息子がメシヤであるはずがないと思い込んでいたのだ。 イエスが、「預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである」(24節)と続いて言われているが、ヨセフの子であるイエスを小さな子ども時代から知っていた人々は、イエスのことをただの人としか認識できなかったのだ。彼らの不信仰と偏見がそうさせたのである。 故郷の人は皆が皆そう冷ややかな人々ではなかっただろう。ナザレ村の人々が全員イエスを拒否したとは記録されていない。中にはイエスに好印象を持ち信頼して長く見守っていた人々もいたかもしれない。関連づけると、たとえば、私の郷里阿波の徳島にも有名人が多くいる。米津玄師(よねづ・けんし シンガーソングライター)、大杉漣(おおすぎ・れん 俳優・故人)、哀川翔(あいかわ・しょう 俳優)、漫画家の柴門(さいもん)ふみ、そして、アンジェラ・アキなどである。同県人は、彼らと親戚でもなんでもないのに何か自分が偉くなったように感じたりもする。不思議である。 そして、熱狂的なファンは別として、それなりに親愛の情を抱きながら秘かに応援している人たちも大勢いることだろう。けれども、有名になる前の鳴かず飛ばずの時代は実に冷ややかなものであったのではなかろうか。「そこにいるかとも言ってくれない」場合もあったのではないかと想像する。そういう時代は、孤独と寂しさを我慢して耐えるしかないのかもしれない。あの頃、人間イエスとしても、複雑な心境でナザレ村の人々を見ていたのかもしれない。 さて、アンジェラ・アキは、シンガーソングライター、ジャズピアニストである。「手紙~拝啓 十五才の君へ」で知られている。2024年から日本での活動を再開している。彼女は、徳島県板野郡板野町出身で、父が日本人、母がイタリヤ系米国人である。同県人となった母と娘についてご紹介したい。 アンジェラさんのド田舎での少女時代は、容姿の違いによっていろいろ人間関係で大変なことがあったようである。たとえば、姿が西洋人なのにまだ充分英語が身についていない時には、奇異に見られることもあったという。母親は母親で外国籍の妻として日本で暮らす孤独や苦労を経験しながら、娘を育てなければならなかった。けれども、彼女は娘の将来のために、夫と約束したという。娘は日本で養育するが、米国の大学に進学させて未来の可能性につなげる力をつけさせたいと、表明したそうだ。その一つの目標を視野に入れて、娘の将来を信じ困難の中においても、母として一生懸命わが子に関わり育てていったのである。 彼女に対する母の忍耐と愛は、強く深いものがあった。アンジェラさんは、幼少期からピアノを習い、シンガーソングライターとして活躍するまでに、母親のサポートと見守りがあった。 彼女は、母親との長年の関わりにより大切なことを学んだという。人生において成長や前進のためには、静かな忍耐と洞察と継続が必要だ、と。 アンジェラさんの母親は、娘の可能性を信じていた。自分たち夫婦が選んだ道によって生を与えられた命の可能性を信じた。そのために親としてできる限りの協力とサポートを惜しまなかった。またハーフであるゆえに日本(徳島・岡山)の人々による偏見があったようであるが、娘にそれらを乗り越える心の強さを身につけさせたのでないかと思う。 母の愛を体験できたことは、子にとって何と感謝なことであろうか。神の愛に最も似ているのは、母の愛であるとよく言われるが、子に対して与えるかけがえのない「無償の愛」は、本当に子としてありがたいものである。 私たちのそれぞれの母も同じような愛情を注いでくれたのではないだろうか。今、過去を振り返る時、一人一人の母の物語を想起することができるに違いない。また、現在そのような母の愛に自らのいのちをけずるようにしながら、苦労しながらも子を愛する物語を紡いておられる方々もいらっしゃることだろう。そのようなお互いの母に心から感謝したい。 特にクリスチャンの場合は、「主を恐れる女はほめたたえられる」(箴言31:30)とあるように、信仰を持って我が子に関わろうとする母親は強い。状況や環境に支配されることなく、信仰によって一つ一つの問題を克服していく。乗り越えていくことができるのである。そのような背中を子に見せて生きる母は、人生の教師ではないだろうか。私にとっても母は確かに教師であったと思っている。そのような母は子にほめたたえられる。 さて、イエスに対するナザレ村の多くの人々の不信と偏見の態度と姿勢は、私たちにとっての悪いお手本であろう。もし、ナザレ村の人々に、賢き母のような主イエスに対する愛と信頼があったならば、彼らの多くの人々も救い主にお会いすることができたであろう。また神の栄光に与る者となったことだろう。 私たちにとって、何をするにも不信仰と偏見は、良きものを失わせるものである。人に対して物事に対して素直な人間でありたいと思わされる。 |
題「不信仰と偏見」ルカ4:22-24
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