| 自動車の力の源は、エンジンや電気モーターである。昔は人力車があって人力が動力源であったが、自動車の場合は、燃料のエネルギー(ガソリン、軽油、ガス、 電気)を回転力に変えてタイヤにその力を伝えることによって自動車を走行させる。まさに優れた文明の利器である。 昭和のコマーシャルで、懐かしいのがある。モービルガソリンのCMだが、GSのモップスの鈴木ヒロミツがもう一人の男とともに、マイク真木が歌う「気楽に行こう」の流れる中、ガソリン切れで動かなくなった自動車を二人で押しながらのどかな田舎の道を汗まみれになりながら移動している。カメラはそんな二人をバックから映し出す。そして、最後に音楽家加藤和彦(アングラ・レコード、帰ってきたヨッパライ ザ・フォーク・クルセイダーズ)が、「車はガソリンで動くのです」としめる。16歳の頃に見た非常に印象的なコマーシャルであった。「車はガソリンで動くのです」(今は他の動力もあるが)。 では、我らが主イエスの御力の源は何であったのだろうか。 イエスは、ガリラヤ伝道を始められ、いよいよメシヤとしての働きが進められていった。31節から39節にその様子が記されている(31-32 カペナウム伝道。33-37 汚れた悪霊につかれた人のいやし。38-39 シモンのしゅうとめの熱病のいやし)。 イエス・キリストは、教えと御業において力があった。 ①教えに力があった。「その言葉に権威があったので、彼らはその教に驚いた」(32節)とある。主の教えは神の言葉を語っていたので権威があった。イエスはその意味で確信を持って教えられたのである。主の語る言葉は、神の権威に裏付けられているので聞く人々の心を揺さぶり動かすことができた。彼の語る言葉は、自分の感想でも考えでもない。神の言葉そのものであったのだ。 ②御業に力があった。「イエスは会堂を出てシモンの家におはいりになった。ところがシモンのしゅうとめが高い熱を病んでいたので、人々は彼女のためにイエスにお願いした。そこで、イエスはそのまくらもとに立って、熱が引くように命じられると、熱は引き、女はすぐに起き上がって、彼らをもてなした」(38,39節)とある。 これは、神の子キリストの権威ある言葉によるものである。神の言葉が御業として顕されたのである。 では、このような主イエスの教えと御業の力の源は何であったのだろうか。教会学校の生徒ならば、素直に、「イエスさまは、神さまの子どもだから神さまの力があったのだと思う」と答えるかもしれない。それも決して間違いではない。 しかし、ルカの証言によるとそういう答えではない。シモンの家での癒しの出来事を伝え聞いた人々は、我先にといわんばかりに、病気で悩む人たちをイエスのところに連れてきた。主は彼らのことを憐れんでひとりびとりに手を置いて、いやされた(40節)。 その後の主の行動に着目したい。 「夜が明けると、イエスは寂しい所へ出て行かれた」(42節)とある。「寂しい所」とは、「人里離れた場所であり、一人になる静かな場所」のことである。それは、主イエスの力の源である、「父なる神とのかけがえのない親しい結びつき、祈りによる交わり」を目的とするものである。 主は、公生涯において父なる神との祈りによる交わりを死守されたお方である。ご自身の力の源がそこにあることをよく知っておられたのだ。 ヨハネ5:19「子は父のなさることを見てする以外に、自分から何事もすることができない。父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするのである」とあるように、父なる神が共にいてくださらなければ、ご自分は何もできないことを自覚しておられた。「わたしは、自分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである」(5:30)とも言われている。主は全く父なる神に呼応しておられたことがわかる。 イエスは、父なる神との祈りによる交わりによって、毎回、「父が共におられること」を確信された。臨在信仰、神と共なる歩みである。「父は子を愛して、みずからなさることは、すべて子にお示しになるからである。そして、それよりもなお大きなわざを、お示しになるであろう」(5:20)とあるように、主は、そのご生涯において、父なる神との祈りによる交わりによって、絶えない神のビジョンと使命を示され、それを地上において実行されたのである。 イエスは、霊なる父なる神を常に霊の眼で見て、その御心を親しく知り、また、そのお方に従うことにより、地上においてそれを体現されたのである。これが、主の教えと御業の源であったのである。ただ単に主が神の子だから持っておられた力ではなく、人間イエスとしての絶え間ない力の源である父なる神に対する信仰と従順によってもたらされた力であることがわかる。 さあ、ここから適用したいと思う。私たちも、クリスチャンとしての力の源を知ることができる。それは祈りによる神との交わりである。一方的な祈願としての祈りではなく、神の言葉に聴き導かれながら祈るのである。 私たちも生活化された祈り(デボーション、神と二人きりになる祈りの交わり。静思の時、御言への傾聴の時)によって、「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」(ヘブル12:2)を実践することができる。それによって、「彼らはみ顔の光のなかを歩む」(詩篇89:15)ことができるのである。ハレルヤ!! B・F・バックストン師の「神と偕なる行歩」の著書の中に、力の秘訣について述べておられる。このようなエピソードを紹介されていた。「一人のスコットランドの少女が、ある人に尋ねました。『あなたは主を知っておられますか。』知っているとの答えでしたが、なお満足できなかったようで、さらに尋ねました。『あなたはお話するように主を知っておられますか』と。この例話は、キリストの力の秘訣は、神さまを「お話できるお方」として知っておられたところにあったことを示し、「あなたはどうか」と問うている。 「アバ・父よ」と、親しい天のお父さんに語りかけ、会話するような祈りは、実に人格的であり深く温かく麗しい。私たちは、そのような父なる神から様々な力をいただくことができるのである。 |
題「御力の源」ルカ4:40-44
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