題「人生の転機」ルカ5:27-32

 先週、私たちは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネが弟子としての新たに召命と献身を明確にして主イエスに従う者とされたところを学んだ。その後、彼らはイエスの驚くべきお働きを目撃した(5:12-16 ツァラアト(らい病)の人の癒し。5:17-26 中風の患者の癒し)。

  主はさらに弟子をお選びになれる。ガリラヤ湖畔の町カペナウムにレビ(結合の意・別名マタイ 神の賜物の意)という一人の取税人がいた。彼がイエスの弟子として招かれ従うようになるとは誰も信じられなかったことだろう。 その当時、ユダヤ社会において、取税人は、「売国奴」や「強盗」のように見られ一般人から厳しく差別されていた。その理由は、取税人はローマ帝国の権力を背景に同胞から税金を割り当て金額以上を取って私腹を肥やしていたからである。実に受税人とは、悪い奴らなのだ。

  ユダヤのミシュナー(口伝律法や伝承を編集したもの)には、「だれも、取税人の勘定台または取税人の袋から、両替の金を受けとったり彼らから施しを受けてはならない」(盗んだ金銭であるかもしれないから)とあり、人々から取税人は、蔑まれていたのである。 さらに、30節には、「罪人など」と呼ばれる人々も登場してくるが、律法遵守で有名な誇り高き人々であるパリサイ派は、前科者に限らず、信心になまぬるい無学な大衆がいるならば、それら全部が「罪人」であるとレッテルを貼って見ていた。

 タルムード(口伝律法と学者たちの議論集)には、「学者の弟子たる者は、無学の衆の社会で一緒に食卓についてはならない」とある。罪深い愚か者とは一緒にいるな、というのである。これらの記録文書によって、その当時のユダヤ教の指導者たちが、如何に自分たちが神の御心を実践する崇高で立派な宗教家であるのかを誇り高ぶっていたか、その基準に達していない一般人や限られた一部の人々を勝手に差別し裁き切り捨てていたのかがわかる。 このような差別は、いつの時代も世界のどこにでも起こり得ることである。

 第二次世界大戦でのナチスによるユダヤ人迫害、米国や欧州での黒人問題、中国でのウィグル人やチベット人への人権侵害。日本での被差別部落問題、アイヌ人への差別問題もあろう。これらは、すでに終わってしまったものではなく、現在も続いている世界と日本の悍ましき闇である。

 ここに記録されている主イエスのとられた言動は、実に革命的であった。先のツァラアトの人や中風の人も、パリサイ派の人たちは、神の祝福を失っている者たち、呪われた者たち、神に裁かれている者たち、と見ていた。

 そして、取税人と罪人たち、その仲間たちも皆同じようにユダヤ社会から排斥され差別されていた人たちであったのだ。 イエスは、そのような悲哀の人レビを見つめられた。彼は職場である収税所に座っていた。町中の嫌われ者に人が近づくはずがない。誰も寄り付かない孤独の人レビ。主はそんなレビに自ら進んで近づかれた。

 主が見られたのは、職業とか評判や噂ではなく、このレビという一人の人格に関心を持って、ごらんになられたのである。 それは、外面的な見方ではなく、彼の過去についても、彼の心の奧底にあるもの、内面を見られたのである。思えば、人間というものは、いろいろなものを内に秘めているのではないだろうか。顔や表情や態度だけではわからないことがたくさんある。人間という存在は決して単純ではない。レビにも人に言えない様々な内面の問題があったのだろう。

  主イエスは、何もかも知られる神として、レビに語りかけられた。「わたしに従ってきなさい」(27節)と。これは、ユダヤ人がラビ(教師)から言われる言葉である。ラビが弟子をとる時の言葉である。「すると、彼はいっさいを捨てて立ちあがり、イエスに従ってきた」(28節)。

 いったい何が起こったというのだろうか。急転直下、実に潔いよい決心と決断による服従であった。 彼は主イエスの御目の力に魅了されたのではないだろうか。「我見て汝を宝とし、尊き者とし、また汝を愛す」(イザヤ43:4)とあるように、主の御愛に心打たれ感激したのだと思う。そして、物質に目がくらんで華やかなこの世の生活ではない、苦難と困難を覚悟しなければならない人生であったとしても、霊的な信仰の人生を選ぶことを体で表明したのだ。

 そこで、彼は救われたことを感謝して記念する盛大な宴会を設け、自分と同じように排斥され差別されてきた知人友人たちを招いたのである(29,30節)。「それから、レビは自分の家で、イエスのために盛大な宴会を催したが、取税人やほかの大ぜいの人々が、共に食卓に着いていた」。

 幸せになった人々を妬んでこき下ろす人々はいるものである。ユダヤ教の宗教学者たちは、お決まりの傲慢な態度で、高いところから見下ろし他者を測る物差ししか持たず、罪人たちと席を共にする弟子たちを批判した(30節)。「パリサイ人やその律法学者たちが、イエスの弟子たちに対してつぶやいて言った。『どうしてあなたがたは、取税人や罪人などと飲食を共にするのか』と。「あなたがたは、口伝律法や伝承を無視して破るのか」と言ったのである。

 主は、すぐに明言された。「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためにきたのではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(32節)と。「義人は一人もいない」(ローマ3:10)とあるように、実はパリサイ人や律法学者たちも皆神の御前には罪人である。ただそれに気づいていないだけである。いや気づこうとしないところに彼らの罪深さがある。

 しかし、レビとここに来た人々は、自分の本当の姿がわかり、悔い改め、そして、霊的な必要が何かを悟ることができ、そして、新たな人生の転機を迎えたのである。私たちもそのような体験をすることができるし、またしてきたのではないだろうか。わたしたちにも人生の転機が与えられるのである。

 歴史に、BC(紀元前)とAD(紀元)があるように。ハレルヤ。
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