過日、聖霊について学ぶ機会が与えられたが、今日は、聖霊に満たされた信徒について、事例をあげながら学んでみたい。さて、初代教会の使徒たちの働きによるエルサレムの神殿の美しの門での癒しの奇蹟をきっかけに教会に対する迫害が始まった。そして、最初の殉教者が出た。それは使徒たちの中からではなく、一般信徒であった。
使徒6章で教会は、執事(役員)として信徒の中から7人を選んだ(6:1-6)。その中でもステパノは「信仰と聖霊に満ちた人」(6:5)として「恵みと力に満ちて、奇蹟としるしを行っていた」(6:8)と記している。ステパノの働きで困り果てたユダヤ教の指導者たちは、彼をエルサレムの議会サンヘドリンに立たせた。そこでは、ユダヤの指導者である大祭司をはじめ国会議員が顔を合わせた。そして、ステパノは自らの宣べ伝えている福音とその働きについて弁明の機会が与えられた。
それは、さながら説教(7章1節から53節まで)となった。その内容は、「アブラハムからヨセフ」(7:2-16)。「エジプトでのイスラエル人の苦難と解放者モーセ」(7:17-29)。「モーセの召命とイスラエルの罪」(7:30-43)。「幕屋と神殿についてとイスラエルの反逆」(7:44-53)。
注目したいのは、この説教を聞いていた人々の反応である。ステパノが、「ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖と同じである」(51節)と言うと、彼らは「心の底から激しく怒り」「歯ぎしりをした」とある。新改訳では、先の言葉を「はらわたが煮え返る」と訳されていて、これはのこぎりで引かれるという意味もあるそうだ。人々は怒りで心が切り裂かれていったのである。
ある人は、ステパノはもうちょっと言い方に気をつけたらいいのにと言われるかもしれないが、彼はいたずらに責めようとしたのではない。聞く人々が誤りに気づいて悔い改めて欲しかったのである。頑迷になっていた彼らはそれを受け入れることができず、かえってこのステパノの迫りは逆効果であった。
そうした中で、ステパノが「聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた」とある。そして「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」(56節)と言うと、彼らの怒りは頂点に達した。神を汚した者として十字架で処刑されたイエスが神の右に立っておられるのが見えたなどと言われてはもう黙っているわけにはいかない。「人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、彼を市外に引き出して石で打った」(57,58節)。
ご存じのように、かつてのイエス・キリストの場合と同じように、これは、正式な裁判ではなかった。もともとユダヤの議会には死刑判決権がない。ローマ皇帝の許可が必要である。それゆえに、この処刑は不合法的リンチであった。さらには彼らの理不尽なユダヤ規則の解釈によって正当化したのだ。そして、エルサレムを血で汚さないために市外にステパノを連れ出し崖から突き落とし、皆で石を投げつけて殺したのである。恐ろしい人間の罪である。
一方、ステパノは石で打たれながらも、いまわの息の下で祈っていた(59,60節)。「ステパノは祈りつづけて行った。『主イエスよ、わたしの霊をお受けください』そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、『主よ、このどうぞ罪を彼らに負わせないでください』と。この二つの祈りは、主イエスの十字架上での祈りの言葉であった(ルカ23:46,34)。
このところから「聖霊に満たされるとは」、神の御言葉で満たされることであることを教えられる。ステパノは、あの主の十字架刑の七つの言葉(ルカ23:34,マタイ27:45,ルカ23:43,46,ヨハネ19:26,27,ヨハネ19:28,30)を聞いていて知っていたのだ。あるいは現場にいなくても十字架のそばに寄り添っていた使徒ヨハネからしっかり報告を聞いていたのであろう。
彼は、信徒としてキリストの御言葉に満たされていたので、聖霊にも満たされてキリストの十字架を想起させる死を遂げたのである。ある人は、彼のこの死を初代教会最初の無駄死であったと言われるかもしれない。しかし、そうではない。
7章58節に「これに立ち合った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足元に置いた」とある。これは、後にパウロとなったサウロのことである。彼はステパノの処刑に同意し賛成し加担している。まさに処刑現場にいたのである。
実は、ステパノはここでサウロのためにも祈ったのである。ステパノへの不条理な断罪と審判に同調し積極的に関わった男サウロ。彼のためにステパノは、主イエスにとりなして「彼に罪を負わせないでください」と祈っていたのである。
そして、その祈りは聞かれてパウロの救いと召命につなげたのだ。何と崇高な祈りであろうか。彼の祈りは結果として初代教会においてかけがえのない「神の人」を生み出したのである。やがてパウロは、大いなる神の宣教のご計画の実現のために用いられるのである。ハレルヤ!
皆さん、ステパノの死は犬死なのではなかった。このように教会には、尊い働きと証を担う一般信徒がおられる。その人たちも御言葉に満たされる時、聖霊に満たされて主に用いられることができるのである。どうか、先にすでに学んだように、聖霊の満たしを特別な人物に与えられる特別な宗教体験のように思わず、パウロが御霊に感じて「聖霊に満たされなさい」(エペソ5:18)と言ったように、主の約束を信じて我がものとしようではないか。ステパノのような特別な状況に遭遇することはなくても、あなたも聖霊に満たされた信徒になれるのである。祝福がありますように。
