題「永遠の命の言を告げる教会」ヨハネによる福音書6:66-69

「教会って何をするところですか」と、青年牧師の頃に高校生から尋ねられたことがあった。幼稚園から小学生の間、自然に教会との関わりを持ちながら過ごしていた自分自身のことを思うと意外な質問であった。

しかし、実際それまでキリスト教会と全く関係なかった方にとっては当然の問いであろう。最近ではネットのホームページで各教会が教会紹介の中でわかりやすく説明している。当教会も新しくなったホームページにも載せてあるのでご参考にしていただきたい。さて、当教会の紹介と歴史についてもそこに記されているが、飯田入舟教会は、何であり、何を信じ、何に価値を見出し、何をこの世に伝えようとしているのであろうか。

それは、一言でいうならば、今日の聖書の言葉に尽きるのではないかと思う。68節「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです」 キリスト教会は、この世に向けて救い主イエス・キリストによる永遠の命の言を告げ知らせる使命に生きる群れである。

キリスト教会には、大いなる救いがある。この大いなる救いに至る道として、まず「幸福はどこにあるのか」と問いたい。これは人間の歴史始まって以来の問題であろう。①神を知ること。聖書の神は、「人間を造られた神である」。人間の根源者。人間のルーツ。人間の自己存在証明。②人間の罪を認めること。聖書のいう罪とは、魂の親である神に対して背を向けて自分勝手に生きている人生スタイルのことを意味している。これをギリシャ語で「ハマルティア」いい「的外れ」ということである。本来創造者の愛の懐に抱かれながら安心して生きているはずであるが、神から離れたために却って苦悩して生きているのである。③キリストがその罪を裁かれるのではなく、赦してくださること。十字架につけられたイエスさまは、死刑に値する犯罪者であったのではない。ローマ法に照らしても無罪であったが、ユダヤ人たちは、彼を死に追いやった。実は、それは何千年も以前に旧約聖書に預言されていたのだ。それは、神から離れて滅んでしまう運命にある人類を罪から救い出し、罪を贖う(自身の命の代価の支払うこと)ためにイエスさまがすべてを承知で「私たちのために身代わりの死」を遂げられたのである。この神の御子イエスの命がけの救いの御業によって、私たちの罪が赦されるのである。④この救いは、難行苦行によるものではなく、善行を積むことでもなく、莫大なお布施をすることによって得るものでもない。難しいことは、全部救い主が代わりにしてくださったので、私たちにできることは、自分の意志によって、ただ信仰によって救いを受け取るだけでよいのである。「十字架は、わたしの罪のためでした。キリストを救い主として信じます。」この信仰である。

永遠の命の言を信じた結果、どのようになるのだろうか。①平安。②喜び。③希望。が与えられる。自力でどうすることもできなかった人生の罪と重荷を救い主が取り去ってくださるのである。そして、魂のうちにこれらの三つが備えられるのである。何と感謝なことであろうか。

教会は、少しだけそのことを先に体験させていただいているだけであって、何も特別に偉いわけではない。しかし、そのことを知らされているゆえに、その救いと幸せをどなたかにお伝えしたいと切に願っている。どうか、あなたも神の言である聖書を手に取ってお読みにならないだろうか。そして、教会の門をくぐって、救いの門であるイエス・キリストを信じて人生の真の幸福をご自分のものとされないだろうか。祝福を祈っています。

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