題「いてくれてありがとう」エレミヤ31:1-6

 教会の価値観を証する言葉として「存在は奉仕に先立つ」という金言がある。若い人、能力のある人、元気な人などは、積極的に神と教会のために労し奉仕することができるのであるが、高齢者、病人、怪我人、身障者などの方々は、神を愛し仕えたいと願いながらご自身のお身体をもって何かの奉仕活動をすることができないのである。

勿論、奉仕はそのようなものばかりではないが。特にご老齢の方々が、何も奉仕活動に貢献し役立つことができないということで、すまなく思っていらっしゃる方々がおられる。そこで、先月私たちは誕生・受洗記念日を祝う際に、「いてくれてありがとう」の言葉の大切さを確認することができた。

 何もできなくとも、そこに居てくださるだけでその存在が素晴らしいということである。私たちは、教会にとって人の活動よりも、人の存在の方が高価で尊いということなのだということを明確にした。この価値観を継続して大事にしていきたいものである。

 さて、「いてくれてありがとう」という時、それは私たち人間関係のことだけであろうか。私たちの日常生活において、創造主、主なる神、救い主に対してどの程度の信仰と思いを抱いているのか定かではないが、改めて問うてみたい。私たちクリスチャンは、実際神さまがいてくださらなかったらどうなっていたことだろう。そのようなことを考えたことはあるだろうか。お互いに神さまあっての私であることを痛感するのではないだろうか。

 イスラエルの歴史においても同じことが言えると思う。エレミヤは、ユダのバビロン捕囚前後に活動した預言者である。イザヤはアッスリヤからエルサレムを救うことができたが、エレミヤはエルサレムを救おうとして失敗した。その意味において涙の預言者とも呼ばれている。31章は、イスラエルとユダの再建の歌である。注目すべき旧約聖書の箇所であり、解放と新しい契約を立てる新約の預言としても知られている。

 1節から9 節までは、イスラエルの回復について記されており、2節から6節には、神の限りない愛が語られている。イスラエルがはるか遠く離れたところに行っていたとしても、神の愛は昔から変わることはなかった。
「荒野で恵みを得た」(2節)とは、味わい深い。荒野は恵みも祝福もない場所であろう。岩場であり泉もなく草花も生えていない。そこではいのちの息吹を感じられない。何のよきものもないのである。しかし、イスラエルはそのようなところであっても、神の恵みを得たのだ。

 「イスラエルが安息を求めた時」「出て行って休みを得よ」(新改訳2017)とあるように、イスラエルが方向転換をした時に、神はお働きくださったのだ。すると「主は遠くから彼に現れた。わたしは限りなき(永遠の)愛をもってあなたを愛している。それゆえに、わたしは絶えずあなたに真実(誠実)を尽くし(続け)てきた」とある。「遠くから」とは、神の愛から遠く離れていた民との距離間を思わされる。また予想もしなかったことを意味しているのであろう。

 背信の神の民にとって、アブラハム契約を自ら破った結果、神に裁かれて当然、見捨てられて当たり前である。なんの文句を言う資格があるだろうか。まさにイスラエルにとって己が蒔いた種を刈り取っているのである。しかし、そのような民のことを主は決してお忘れになってはいなかったのである。バビロン捕囚の70年間の時を経て、イスラエルは罪赦されエルサレム帰還が許されるのである。そして、それはさらに新約的福音の御業として現わされるのである。

 予想もしなかったところに、神は天から下って来られた。イエス・キリストは突然天から下って来られた。それは、クリスマスの出来事である。そして、主ご自身の公生涯そのものを通して、人に対して神がどのようなお方であられるのかをお示しになられた。主は、ご自分の命を最後の一息まで人間のために削って生きて下さった。そして、その人生のクライマックスに、その命を文字どおり十字架にささげてくださったのである。神の独り子が自ら人類の贖いのご犠牲になられるなど誰が想像することができたであろう。主のご愛はどこまで深いのであろうか。

 ノルウェーの偉大な探検家ナンセン(1861年~1930年)の働きはよく知られている。彼が、ある時北極付近の海の深さをはかろうとして、長いロープを使った。予想していたよりも海底は深くとどかないことがわかった時、彼とそのチームは次のように記録した。「『これよりもなお深し』次の日、さらに長いロープを使った。しかし、結果は何度繰り返して海の底にはとどかない。最後にロープというロープをつなぎ合わせて海におろしたが、それでもなお彼は、『これよりもなお深し』と書かざるを得なかった。彼はその海が何千フィートあるか知らぬままに、そこを離れて行った。そして、ナンセンは思った。『これは神の愛と同じだ。神の愛はかくも無限でありたもう』と。神の愛は、実際私たち人間が想像することさえできない驚くべきものであろう。しかし、ナンセンは、それでもたとえて神の愛は海の深さのように深い、と言ったのである。無限の神の愛なのである。

 さあ、私たちの世界に、予想もしないところに、予想もしなかったことが起こったのである。これが神の道なのだ。「限りなき愛」は、御子の受肉降誕と十字架の救いの御業に実現した。このお方あっての神の民であり、そして教会なのである。私たちは、常々から主に申し上げようではないか。「主よ、あなたがいて下さってありがとうございます。もしあなたがおられなかったならば、私たちはどうなっていたことでしょう。主よ、そのあなたが驚くべき愛を私たちに現わして下さったことをありがとうございます。」と。今日も、主の前にひれ伏して礼拝しようではないか。
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