題「心を治める者」創世記4:1-7,箴言16:32

 私たちの日常生活において、感情のコントロールをすることはどうでもよいことではない。お互いの人生において平穏な人間関係を築くことは大切なテーマでもあろう。特に怒りの制御はとても重要であるといえるのではないだろうか。

 書店に並んでいる本にも「アンガーマネジメント」、「怒らない100の習慣」「怒りのコントロール」「怒りが消える心のトレーニング」などと沢山ある。それだけ人々の必要があるからだ。

 時々、ブレーキがきかなくなった自動車が大惨事を起こすこともあるが、心のブレーキがきかなくなる時も人間関係において大変な惨事になることを知っておいたほうがよいと思う。普段はおとなしい人であるが一旦かっとなってしまうと手のつけられなくなる人の話を聞く。その場合、文明人ではなくなり、野獣に近い、分別を失ってしまう動物になってしまうのである。

 ニュースに出てくる犯罪者も内側の心の怒りをどうしようもなくなり一線を越えてしまうのである。殺人、暴行、虐待等々。しかし、それだけではなく、卑近なところで、怒りのために、大切な夫婦関係が壊れたり、親子断絶になったり、仕事で商談が破談になったり、友人の絆を切断してしまったりするのだ。さらには、怒りは民族間、国家間の平和を打ち砕いてしまうものでもある。私たちは、それらを現在の国際情勢により知ることができよう。

 さて、人類の祖、アダムとエバから生まれたカインは、妬みと憎しみのゆえに弟アベルを殺した殺人犯になってしまった。人類の最初の殺人事件となった。カインのその性質は、実は父母から受け継いだものであった。かつて神に反逆したアダムとエバには原罪(General sis)が内住してしまった。それは、神が悪いのではなく自らが自由意志で選び取った結果であった。その原罪が息子であるカインとアベルにも遺伝し伝達されて、そのまま受け継がれていたのである。今日、私たちはその子孫であることを忘れてはならないと思う。

 実に、カインとアベルの麗しいはずの兄弟の関係と交わりが、突然のように切れてしまった。何と悲しい現実であろうか。荒野で血まみれになって倒れているわが子アベルの姿を見つけ出したアダムとエバは、おそらく放心状態であったことだろう。信じられない。認めたくない。しかし、エデンの園で自分たちが神に対して犯した反逆行為の結果でもあることを思い、息子カインを一方的に責めることもできず、二人は冷たくなったわが子にしがみついて泣きながら神の憐れみをただただ祈ったことであろう。

 では、この事件の原因は何であったのだろうか。それは妬みである(4:1-5)。罪を負うことになったアダムとエバは、息子たちに信仰に生きることを教えたようである。ここで二人とも神に供え物をしたが、神はアベルの供え物を受け入れ、カインの供え物は受け入れなかった。いつか教会学校の子どもが神さまは人に対して分け隔てをする、カインがかわいそうだ、と言っていたことを思い出す。けれども、そうなのではない。それはカインのささげ物とささげ方に問題があったのだ。しかし、カインは自分を省みることなく、「大いに憤って(激しく怒り)、顔を伏せた」。

 さあ、私たちの人間関係において同じことはないだろうか。教会の交わりが壊れる原因に、誰かが誰かに語った一言葉によって、「妬んだり」「憤ったり」「すねたり」することがあるのではなかろうか。それは、キリストの弟子たちにもあった互いの競争意識やライバル意識が働いて麗しい関係を壊してしまうのである。

 「あの人には負けたくない」「あの人だけが誉められるのを見たくない」「いつかあの人が失敗したらいいのに」などと、妬んで、憤って、自己憐憫が働いて思ってしまうことがあるとすれば、とても残念なことである。
 神はすねてふくれたカインに語られた。「なぜあなたは憤る(怒る)のですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう(神の前に胸をはって立てるであろう)。もし正しい事をしていないのでしたら(ここで神はカインに悔い改めを迫っている)、罪が門口に待ち伏せています(獲物を狙う動物のように待ち伏せする)。それはあなたを慕い求めますが(餌食にするため)、あなたはそれを治めなければなりません(身を任せるな。逆に支配せよ)」と。

 悲しき哉カインは神の憐れみを受けることができたのに、その機会を失い一生悔い改めることはなかった。悔い改めることなく死んだのである。私たちは、このカインの失敗の後を追うように同じ轍を踏むことないように注意しなければならないと思う。

 まず、この二人の兄弟の事件を他人事のように思わないことである。つまり、自身に適用しなければならない。

①自分自身、カインにとってのアベルのような人はいないかと思いめぐらすこと。
②その人に競争意識やライバル意識を持っていないかと問うこと。
③カインは憤り(怒り)をなぜアベルに向けてしまったのか、と問うこと。心の内にある負のエネルギーがどこから来るのか知ること。なぜアベルが殺されなければならなかったのか。
④かたちだけの宗教は人を救うことができないことを知る。カインには、親から教えられた宗教はあったかもしれないが、真に神との生きた交わりによる喜びや満足を体験していなかった。神との断絶状態にあった。
⑤神は原罪を負う者にも、なお良心を与え反省を促される。カインはその時、自分の心の動きに敏感であるべきであった。それを野放しにしてしまったところに彼の失敗の要因がある。
⑥人は教えられ易い心を失ってはならない。すべてのことにおいて自分が正しいのかと問うこと。

 そして、それらのことを確かめた上で、根本的に重要な解決をしなければならないことは何か。それは、「内住の罪」の根っこの衝動を「治めること」である。制御すること。コントロールすることである。

 失敗する前に何らかの状況で負の感情が自らの内側に起こったならば、それを速やかに、ガラテヤ2:19,20にあるように、「わたしはキリストと共に十字架につけられた・・・(肉的な感情、思い、意思を自覚して、それをキリストが十字架につけられて死なれたように、自分の信仰によって十字架につけて殺してしまうこと。負の感情を十字架で殺してしまうことである。

 パウロは、ローマ6章3節、4節、6節で「キリストの死にあずかるバプテスマを受けた者は、彼と共に葬られた」「古い人はキリストとともに十字架につけられて死んでいる」と言っている。11節では、「罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認めるべきである」とも語っている。

 コロサイ3章1節、5節、8節では、「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを思い、〖罪〗を殺してしまいなさい。〖罪〗を捨ててしまいなさい」と言っている。主イエスを救い主として信じてバプテスマ(洗礼)を受けた時に、もう死んでいるというのである。神学校の恩師、小島伊助師は、「死んでいるから、殺してしまいなさい」と教えてくださった。そのことを信仰によって再び思い返し、・・・生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしのうちに生きておられるのである」ことを確認するのである。

 この信仰のことを、【自我の磔殺(たくさつ)】信仰と言う。これによって、私たちの普段の日常生活において起こってくる内住の罪のエネルギーによる怒り、憤り、妬みなどを一つひとつ葬り去ろうではないか。
  
 これこそ、信仰的、霊的感情の制御法である。「心を治める」ことである。教会の交わり、奉仕、礼拝の中で、感情問題が生じた時には、できるだけ早く主に告白し、十字架によるきよめの恵みに与ろうではないか。「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる」(箴言16:32)のだ。
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