| ジュネーブ教会信仰問答というのがある。これは宗教改革者カルバンが著したものでプロテスタントの信仰の基礎となっている。問1 「人生の特に目指す目的は何か」。答「人を造られた神を知ることである」。人の究極の目的は、創造主なる神を知ること、神を崇めることが神に造られた人間の究極の目的であるというのだ。そして、神を知ることは、イエス・キリストにおいて知ることを示している。 マタイ11章28節以降のところで、主が話しておられる相手は、神を真剣に求め宗教的な良きものを懸命に努力しながらも、それが不可能であることを知って疲れ果てている人である。この有名な28節から30節の主の御言は、当時そういう背景の元で語られているのだ。 古代ギリシャ人やローマ人は、刻まれた偶像としての神々の顔を拝んでいたが、本当の彼らの魂からの叫びは、「真の顔のある神を知りたい」ということであった。しかし、それは不可能であることを知っていた。主イエスは、ここで言われる。「あなたがたの神の探究は、私において終わる」と。 真の神信仰は、イエス・キリストにおいて神を知ることである。それゆえに、すべての人々は、神を知るには主イエスの元に来なければならない。そこで、主は、そういう人々に対して、三つの命令をお示しなられた。 ①「わたしのもとにきなさい」。イエスを通してでなければ神と救いを知ることができないならば、私たちが誰かに証しや伝道をしたいと思うなら、その方を主の元に招かなければならない。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい」と言われている。クリスチャンだけではなく、すべての人々が招かれているのだ。この招きは、愛、親切、大いなる報いの約束が伴うものである。自力による信心や修業、道徳倫理を求める律法主義的宗教生活は、「重荷でしかない」が、主は「休ませてあげよう」と言われた。なんと印象的な御言であろうか。かつて柘植不知人師は、この主の御言にひきつけられた。そして、主イエスの救いを受けられたのである。 ②「わたしのくびきを負いなさい」。「くびき」とは、主人が牛馬を、主人の思いのまま目的地へ歩ませて行くための道具である。普通家畜は自分勝手に動こうとするが、もしご主人様の考え通りに進みたいと思うならば「くびき」はもはや邪魔な物ではなく願わしい道具ではないだろうか。それと同じように自分の意志を持つ私たちが、キリストの元へ行って神をよく知りたいと願うならば、私たちにとっては、くびきは煩わしい物ではなく、ありがたいものになる。「負いやすく」とは、「有益であり喜ばしい」という意味である。「わたしの荷は軽い」とあるように結果的に実質的にくびきにはならないのである。「あなたが右に行き、あるいは左に行く時、そのうしろで『これは道だ、これに歩め』と言う言葉を耳に聞く」(イザヤ30:21)とある。 ③「わたしに学びなさい」。これは、主が言われた「わたしは柔和で心のへりくだった者である」ということを学ぶことである。つまり、「柔和と謙遜を学びなさい」ということである。それを学ばない人は、キリストや救いを必要としない人だと思う。自分は知恵者であって賢い。神について学ぶ必要はない、と考えるのである。キリストが柔和で謙遜であられるように、その手本に倣い学んでいこうとする人は、正しく神のことについて知り信じることができるようになるというのである。 キリストのこれらの三つの招きと命令に従う者に与えられる約束は何であろうか。「あなたがたを休ませてあげよう」。「そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」とある通りである。後半は「そしてあなたがたの魂のために、休みを見出すであろう」と訳すこともできるが、実はこれは、先週の御言と関わっている。 エレミヤ6章16節「あなたがたはわかれ道に立って、よく見、いにしえの道につき、良い道がどれかを尋ねて、その道に歩み、『そしてあなたがたの魂のために、安息を得よ(休みを見出せ)』」とあるが、主イエスは、この御言を引用されたのだ。 さあ、これは、「休みの保証」である。なんとありがたい朗報であろうか。しかしながら、エレミヤの時代、ユダヤ人の代表的指導者たちは、「われわれはその道に歩まない」と言った。何と残念なことであろう。 「魂のために、安息を得る」ことができるのに、その道を敢えて拒否するとは如何なものであろう。私たちはそのような選択はどうしても避けなければならない。それは私たちが生かされるためである。 今日のキリストの御言は、「すべて重荷を負うて苦労している者」に対する招きである。それは大きな保証である。善を欲しながら善を行うことができないで苦悩する人。悪を憎みながら悪と罪から自由にされていない人。清きを求めて葛藤している人。今こそ、やさしい愛の御心を持って招かれるキリストの招きに応えようではないか。そして、この福音を家族に友人に証し伝えようではないか。 |
題「休みの招き」マタイ11:28-30
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