建物において窓の役割は様々あるが、外部と空間を隔てながら、暮らしに必要な明るさを確保するために、採光は重要な窓の役割の一つである。
「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう」。
私たちにとって、人体の目は光が体に入る窓である。もし、窓に曇りなくゆがんでいなければ、光は均等に部屋一杯に差し込んで、隅々までも明るくする。だが、もし窓ガラスが曇ったり、ゆがんだり、汚れていたり、冬ならば氷ついていたならば、光がさえぎられて、部屋は暗くなる。その部屋の明るさは、光が差し込んでくる窓の明るさによって決まるのである。
主イエスは、人の心に差し込む光の量は、その窓である霊的、精神的な目の状態によって決められる、目は全身の窓であることを示された。光が無いのでも悪いのでもない。光はそこに存在し、ちゃんと輝いているのである。こちらの目の問題なのだ。
ここで主イエスは、心の目を明るくすることと、目を暗くすることについて語られる。それは、「澄んでいる目」と「悪い目」である。先の「澄んでいる」とは、「寛大な」「物惜しみしない」という意味があるそうだ。「悪い」とは、逆の「不寛容」「物惜しみする」という意味になる。
この箇所を文脈の流れで読んでいくと、「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すことができない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである」(6:19-21)とある。
「天に宝をつむことについて」語られている後に、からだの窓について述べられているのだ。パウロは、コリント教会に対して「あなたがたはすべてのことに豊かになって、惜しみなく施し、その施しはわたしたちの手によって行われ、神に感謝するに至るのである」(第二コリント9:11)と語り、ローマ教会にも「寄付する者は惜しみなく寄付し」(ローマ12:8)と言っている。私たちは、そのような愛の行為のために心の目が健康であることが必要なのだ。
さて、英国にこのような美しい話がある。ある職場に一人の女性がいた。彼女の収入は少なく、文筆で生計を立てたいと願いつつも、将来の見通しがつかなかった。だが彼女は、非常識と思われるほど親切な人で、自分の貧乏よりも他人の貧乏に心を痛めていた。彼女は、自分の欠乏していることよりも、友人の窮乏を充分助けることができないことを悲しみ泣いた、という。このような人こそ、人も物も正しく見ることができるからだの窓が明るい人といえるのではないだろうか。
オーディオドラマ「瞳を閉じてみれば」というラジオドラマを聴いたことがあるが、とても印象的であったのでよく覚えている。フィクションなのだが、何かリアルに心温かくなるお話であった。あるところに年金詐欺師の男がいた。彼が50歳で会社にリストラされふてくされていた頃、詐欺師を真似て障碍者年金をかすめ取る詐欺犯罪に手を染めてしまう。
人がいる時には目が見えないふりをして日常的に生活しているのだが、一人でいる時は目をあけて普通に過ごしているという役者のような日々が続いていた。そんなある日、年金事務所に年金手帳の更新手続きに行った帰りに、障碍者割引のある喫茶店に入った。いつものように目が見えないふりをしてコーヒーを注文した時、そこで一人の高校二年生の女の子に出会う。
この子は、男に関心があるらしく親切に語りかけてコーヒーのミルクや砂糖を入れる世話までしてくれた。言葉を互いに交わしていると、男に今何をしてみたいか、と問うてきた。男はなにげに山登りと言うと女の子は、その願いを適えてあげると言う。男はそんな気もなかったのであるが、高校の授業の一環で誰かのためボランティア活動や誰かをお世話するという課題が与えらていると言う女の子の好意をむげにすることもできず、成行きで男はその女の子と山登りをすることになった。この展開がおもしろく滑稽である。
そして、ある日曜日二人で山を登ることになった。高校生はその約束の日までに視覚障害者をどのように援助したらよいのか担任教師に尋ねて備えることにした。健常者が視覚障碍者と関わる心得やどのように具体的に援助することができるのか一生懸命学ぼうとした。相手が詐欺師であることを知らないまま。彼女は、目の見えない男のために山登りの際に目に入るであろう植物の解説をするために図鑑でしっかり学ぶことも忘れなかった。男の心の記憶に山の風景が残ることを楽しみにしながら。なんというけなげさ。なんでもしてあげたいという女の子のやさしさが伝わってくる。
そして、その日彼らは予定どおり一緒に山を登るのであるが、男は女の子の一つひとつの仕草と語りかける言葉に言いようのない安らぎと感動を覚えることになる。「今日は、あなたの目の代わりになります」。実は、この高校生は中学生の頃突然両親を交通事故で失い、今はおばあさんと二人で生活しているとのこと、でも慎ましい生活でも普通に幸せを感じ満足しているとのこと。そして、将来は人の役に立つ医療関係の専門学校か警察関係の仕事につくことを願っていると話した。
男にとって偽善的に過ごす半日であったが、男は女の子のやさしい一言葉一言葉によってすさんだ心が癒されていく。そして、楽しい時はあっと言う間に過ぎてしまった。二人は下山して一緒に駅まで来てそこで別れるのだが、男は女の子に、「今日は君のおかげて一生の思い出ができた。君は周りの人の心を幸せにする。俺も変わらなければ、と心底反省したよ。これからも今日のような・・ちゃんのままでいてね。」と。手を振って別れた時、男は心に決めていたことがあった。それは、年金詐欺を認めて、悔い改めて、警察に自首することであった。男は直通で小さな交番に入って行った。そして、警官に自首を申し出て「人のやさしさに触れて・・」と照れ臭そうに話した。このお話に登場する高校生の女の子もからだの窓が明るい人かもしれない。
多くの場合、世俗の世界にに晒されていると、からだの窓は暗くなる。それは、三つの平和がないことではないかと思わされている。
①「内面の平和がない」。第1コリント13:4「愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない。誇らない」とある。ところが、他人の成功を素直に喜ぶことができず、他人の幸福を妬み、斜に構えることがあるのではないだろうか。こういう心には平安はないし心底満足を真に体験することはない。焦りと寂しさが心に巣くってしまう。「私は幸せです」と決して言うことができないだろう。心に平安、平和を持つことが必要である。
②「他者との関係に平和がない」。ディケンズの「クリスマスキャロル」の主人公といえば守銭奴のスクルージのお話である。彼はクリスマスの時に過去、現在、未来を旅する神秘体験により回心するという物語である。スクルージは、お金持ちであったが、ケチで冷酷で人間嫌いであった。お金の亡者、欲張りはすべての人に嫌われ軽蔑される。結果的に彼は他者との間に平和がなく孤独であった。スクリージはそのような人であったのだ。そんなスクリージがやがて本当のクリスマスを楽しむ人に変えられていく。「受けるよりは与える方が、さいわいである」(使徒20:35)とあるが、それは主イエスがそのご生涯によりお示しなられた生き方である。人々の嫌われ者は、多くの人々と和らいで愛される人になっていったのである。人間関係の平和である。
③「神との平和がない。神と和らいでいない」。ヨハネ3:16「実に神は、そのひとり子さえ惜しまず与えるほどに、この世界を愛してくださいました。それは、神の御子を信じる者が、だれ一人滅びず、永遠のいのちを得るためです」(LB)。神ほど豊かで富めるお方はいない。その神がご自身を与える以上に尊い存在である御子を私たちのために惜しまず与えてくださった。主のご降誕と十字架の救いと贖いのことである。 そのような神と常に自己主張と我が道を貫き通そうとする心が凍りついている人とは決して交わることはないであろう。これは罪による神との断絶である。小さな一円玉でも私たちの目に被せるなら、燦然と輝く太陽の光をも遮る。人間にとって小さく思える原罪は、そのように神との関係を壊しているのである。まさに霊的な目の悪い状態と言わなければならない。なんとしても、私たちは神と和解しなければならない。その橋渡しをしてくださったのが、主イエス・キリストである。
私たちは、「神と富とに兼ね仕えることはできない」(24節)とあるように、生き方そのものを変えるために、悔い改めて神と和解して心に平和を持つことだ。さあ三つの平和を得ようではないか。自分の心の中に、他者との関係の中に、そして、神との関係において。私たちは、過去の出来事ではなく、日ごとにこれらのことを確認しようではないか。
