題「復活―義」ローマ人への手紙4:19-25

 今年のレント(受難節・四旬節)は、3月5日から4月19日までだ。これは、イースター(復活祭)前の日曜日を除く期間をキリストのご苦難を覚え克己し祈り深く過ごす教会暦である。 それぞれ主イエスを偲びながら復活記念日のために備えておられることであろう。

 この4月は、特に「復活」について多角的に御言を学んでみたいと願っている。 日本の宗教では、墓を重んじる風習がある。また、死んだ人を祭るのが宗教であると考えている人も多い。しかし、本来宗教というのは、死んだ人に関するより生きている人に関するものであって、「人は如何に生きるべきか」を問うものでなければならないと思う。

 数年前に、地元のある僧侶から貴重なお話を伺ったことがある。その方は、仏教の死生観を語っておられる中において、「人は生きている間に仏法を学び悟りの境地に至らなければ意味がない。生きている間が勝負なのだ。『喝!』と葬式で叫ぶのは、会葬者にご遺体を指し示し、『あなたもやがてこのようになる前に悟りを得なければならない』ことを知らしめるためである。死後の世界には全く関心はない」と。つまり、あの『喝!』は、生きている者への覚醒の促しであると言うのである。 これには若干驚いた。これまで葬式仏教のことを常識的に聞いて知っていたのであるが、この僧侶が、死よりも生きている間のことを問題にしておられることに感動した。

  これまで、キリスト教会は、「神・罪・救い」を語ってきた。創造主である神が存在されることを示し、命も物質もこのお方によって創り出されたこと。神にとって最高の作品であったはずの人間がこの神に対して反逆して罪を犯し神のことがわからなくなったこと。まさに迷子の羊と化したこと。しかし、神はそんな神に背を向けた人間を憐れまれ、罪人を救うために救い主をこの世に送られるご計画を立てられたこと。それが、クリスマスである。「神は霊である」とあるとおり、本来神は肉眼で見ることができるお方ではないが、たった一度だけ霊なる神が救い主として人間にわかるかたちで「受肉降誕」(神が人として生まれること)なさったこと。

 そして、イエス・キリストは、公生涯において救い主として人間の悲哀をすべてなめ尽くされて、そのご生涯の最後に罪人を救いあげるために十字架の道を辿られたこと。キリストの十字架は、神から離れた罪人を救う唯一の救いの方法であること。それは全人類の罪の身代わりの死であり裁きである。キリストは救い主・贖い主として十字架に死に墓に葬られた。この神の御子の尊い命の犠牲により、私たち人間の悍ましき原罪と罪過は、すべて彼が引き受けられたことによって帳消しにされたこと。それらを教会は宣べ伝えてきたのだ。さらに その事実を高らかに宣言し証しするために、主イエスは兼ねてから約束しておられたように墓場を蹴破って三日目に復活したことを大胆に語ってきたのである。

 教会は、この復活されたキリストを記念するために日曜日に主日礼拝として礼拝するようになった。まさに復活の朝を想起する時である。 その意味において、主は死んだことはあるが、今も生きておられるお方として教会は週ごとにこのお方を礼拝するのである。そのように、キリスト教会も人間が死んでからのことではなく、生きている間に、救い主を信じて救われることを宣べ伝えてきたのだ。これは教会がこの世において伝道する前提としてとても大切なことである。

 さて、ローマ書4章は、使徒パウロにより信仰による義認について述べられている。「義認」とは、宗教用語あるが、「神が人間の罪を赦し、正しい人であると認めること」を意味している。ここで信仰義認の実例としてアブラハムの義認をあげている。「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」(4:3)とある。

 彼は創世記15章6節「アブラハムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた」の原体験を引用して、信仰による義を証ししたのだ。それは割礼前(割礼とは、アブラハムの時代から男性の生殖器の表皮を切り取る宗教的な意味のある神の民の印とされたものである。古代においては他民族も割礼を衛生面の事情で行っていたことはあったが、それとは全く意味が違う)のことであり、神の義は割礼とは関係なく与えられるものであることを示した(10節)。 この信仰義認は、人は救われるために律法(神の法律・戒め)の義を行わなくて割礼を受けなくても救われるという、「信じて救われる」新約の恵みを証しするものだ。

 後半でアブラハムの信仰は、「死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。彼は望み得ないのに、なお望みつつ信じた」(17.18節」とある。これについて、ヘブル11章19節には「彼は、神が死人の中から人をよみがえらされる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである」とある。ここでは、燔祭としてささげられようとしていたイサクとの関連で復活信仰が語られているが、この章ではアブラハムと妻サラとについて語られている。老年で子どもが生まれそうもないのに、彼は神の約束を信じた。これを彼の復活信仰という。

 「およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった」(19節)とある。「だから、彼は義と認められたのである」(22節)とパウロは証している。さらに続けて、「しかし、『義とみとめられた』と書いてあるのは、アブラハムのためではなく、わたしたちのためでもあって、わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらされたかたを信じるわたしたちも、義と認められるのである。主は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである」(22-25節)とあるとおりだ。

 初代教会の復活信仰は、今も有効である。そして、今日私たちは、復活の主イエスを信じている。罪人が罪赦されて神の子とされることがどんなに尊いことであるのか、改めて思わされている。同様に、世界の祝福の基となったアブラハムの信仰にも学び継承していきたいものである。
 「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のやからは、あなたによって祝福される」(創世記12章2.3節)。一人の人、アブラハムの信仰義認が、神の民イスラエルをとおして世界を祝福するに至るのである。
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