| パームサンデーとは、棕梠の主日のことである。主イエスが十字架の道を辿られるために、エルサレム入城されたことを記念する日のことである。この日から一週間をキリストがエルサレムで受けた苦難を記憶することから受難週と呼ばれている。主は、預言どおり十字架により人類の贖いと救いを成し遂げられ金曜日の午後、墓に葬られ、その日を数えて三日目の日曜日の朝復活されたのである。今朝は復活の命について学びたい。 さて、主イエスは、ベタニヤ村のマルタ、マリヤ、ラザロの家族とは、親しい関係にあったようである。主がエルサレムに行かれる途中、度々立ち寄られたことがあった。 この11章では、弟ラザロが病気になり、姉妹たちは主イエスにその様子を知らせ助けを求めたが、主が来られたのは、ラザロが死んだ四日後であった。実に遅すぎる来訪であった。 ところが、主は愛する者を失って悲しみに沈んでいたマルタとマリヤに「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」(11:25)と言われた。 この意味は、「わたしを信じる者は、あなたの兄弟のように死に墓に葬られるとしても、わたしの力でよみがえらされ生き返るであろう。わたしへの信仰は、その者をすべての命の源に結びつける。死はほんのしばらくの間、彼を束縛するだけである。わたしが筆頭者として命を持ち、墓に閉じ込められた囚人であり続けないのと同様に、わたしを信じる者すべては確かに生き返るのだ」ということである。 これは、人間の魂の奥底にある「人がもし死んだら、どうなるのだろうか。また生きることができるだろうか」との問いに答えを与えるものである。この後、死臭漂う墓に葬られたはずのラザロが主の一言葉でよみがえるのである。「イエスは言われた。『石を取りのけなさい』。『もし信じるなら神の栄光を見るであろう』。『ラザロよ、出てきなさい』」(39,40,43節)。「すると、死人は手足を布でまかれ、、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた」(44節)とある。 彼のよみがえりは、主イエスの復活の預言である。この主の御言は、受難週を経て死に勝利されたことを復活によって証しされたのである(マタイ28:1-10)。実にイエス・キリストは、その復活によって、人類最後の敵である死を滅ぼし尽くし信じる者に、死に打ち勝つ力を与えてくださったのである。「『死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか』。感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜ったのである」(第一コリント15:55,57)とあるおりだ。 そして、26節の御言も興味深い。 「また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」(26節)とある。これは、どういうことか。ここでは、まだ生きている者のことを語られている。「主を信じる者はすべて、決して滅びない」と断言しておられる。 この箇所を読みながらあることを思い出した。それは、姫路福音教会時代のこと、あるご兄弟の多い仲の良いご一家がいて、四十代の信者であったお若い弟さんが(ご兄弟すべてが信者ではなかった)先に病気で亡くなられたのだ。突然の愛する弟の死に接して、葬儀の際、お兄さん方がとても痛んでおられた。ご自宅での出棺式の時である。先の聖書の言葉を読んでお祈りをした。その後、棺のふたをする前に、きれいに生花でご遺体を覆うのであるが、特に弟さんと絆が強かった年の近いお兄さんが、たまりかねてご遺体に縋り付いて号泣されたのだ。「話が違うやないかい!神さん信じても死んでしもうたやないかい!」と叫ばれた。心中察するに余りあるこのご一家に起こった大きな出来事に、まさにお慰めの言葉も失ってしまった。しかし、厳粛な式は進められねばならない。そこでご長男のお兄さんが、そのような傷心の弟を慮って棺から引き離して慰めていた。今もよく覚えている心痛極まりない悲しみの場面である。 では、主はここで事実ではない気慰め程度の偽りの言葉を語られたのであろうか。答えは否である。聖書において、死は二つの意味がある。第一の死は、信者でも未信者でもすべての人々が体験する心臓停止とともに訪れる肉体と魂の分離のことである。 もう一つは、第二の死といわれているもので、これは命を与えた創造主である神との永遠の離別である。恐ろしいものだ。 すなわち、救い主を拒否し否定する人々のことである。「しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべての偽り者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」(黙示録21:8)とある。 これは信者にとっては、何の力も及ばない。私たちにとっては、キリストを信じた瞬間から、死というとげは抜かれ、終わりのない永遠の命に与っているのだ。その身体は、一時的に墓に納められるかもしれないが、しばらくすると、栄光の身体へとよみがえらされるのである。その魂は、何の妨げもなく永遠に生き続ける。先の早くして召された方は、その意味において「いつまでも死なない」のである。 主は、マルタに「あなたはこれを信じるか」と問われた。彼女は「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」(27節)と答えた。主イエスが救い主であるゆえに、神の子であるゆえに、人間に不可能なことでもイエスにはできることを信じたのである。この告白は、完全なものではないにしても素晴らしいといえる。ひとりのユダヤ人女性としてこれほどの真理を悟っていたことは評価できるのではないかと思う。しかし、それはかなり漠然としており鮮明ではなかった。その証拠に、主がラザロの墓の石を取りのけなさい、と言った時、主の復活の力を信じることはできなかった。「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」(39節)と。 今日、私たちは、聖霊の助けによって、主が「信じるなら神の栄光を見る」と言われたように、主の復活の命の力を信じようではないか。そして、絶望の涙ではなく希望の涙を流す者でありたい。 最近、NHKの朝ドラで「あんぱん」が放送されている。お話は、漫画・アニメ「アンパンマン」の生みの親、やなせたかし氏と妻暢さんの物語である。なぜここでそれを取り扱うかというと、「アンパンマン」のキャラクターとお話にイエス・キリストが重なっているからである。実はアンパンマンのモデルはイエス・キリストではないかと思っている。 いくつか共通点をあげると、一つは、アンパンマンの誕生は、パン工場の焼き窯の中に、天から命の星が降って来たという設定である。イエスさまは、母マリヤの胎内に聖霊によつて宿られた。東の国の博士たちは、星の輝きに導かれて救い主にお会いできた。アンパンマンは、弱い人や悲しんでいる人、苦しんでいる人を助けてくれる。イエスさまもまさにそのとおりのお方である。また、アンパンマンは、お腹を空かしている人に、自分のお顔(あんぱん)を裂いて食べさせ助けてくれる。「わたしはいのちのパンです」(ヨハネ6:48)と言われたイエスさまとぴったりである。 聖餐式の際に、繰り返し確認しているように、聖書において「食べる」「飲む」ということは、「信じること」である。私たちは、いのちのパンである主イエスを信じて救われる。アンパンマンは、自分を犠牲にして他者を生かすのだが、弱ってしまってバイキンマンに攻撃されて倒されてしまう。しかし、パン工場でジャムおじさんから新しい頭が与えられて、顔を取り換えて復活する。そして、バイキンマンを退治するのだ。イエスさまは、十字架に人類の罪の身代わりとして死なれるが、再びよみがえる。イエスさまは、死に打ち勝ち、人々に希望を与え、人々の人生を変えてくださる。 「わたしは、よみがえりでありいのちです」(ヨハネ11:25)。イエスさまは、悪魔と悪魔の策略を木っ端みじんに破壊された。「わたしはサタンが天から電光のように天から落ちるのを見た」(ルカ110:18)。「彼(イエス)はおまえ(サタン)のかしらを砕く」(創世記3:15)とあるとおりだ。 アンパンマンは、自分を身代わりの犠牲にして、人々に喜びと生きる意味を教えてくれる。それは、レベルにおいてその比ではないが、意味においてはイエス・キリストと全く同じである。イースターを前にして、私たちは、本当に頼りになる「真のヒーロー・救い主」が与えられていることを心から感謝し主を誉め称えようではないか。ハレルヤ! |
題「復活ー命」ヨハネ11:19-26
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