| 復活の主を覚え感謝し誉め称えたい。ハレルヤ! デドモと呼ばれていたトマスは、12弟子の一人であった。この箇所によると、彼は、他の弟子たちの言葉だけでは復活の主を信じることができなかった(25節)。「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。 このことからトマスのことを不信仰で懐疑論者の代表のように悪く言う人たちがいる。しかし、実際は他の弟子たちもみな同じであった。復活の主の知らせがあったのに、マタイ28:17「しかし、疑う者もいた」。マルコ16:11,12,14(3回)「信じなかった」。ルカ24:11「信じなかった」と当時の様子が報告されている。 トマスだけではなく他の弟子たちもみな「同じ穴のむじな」であって復活をにわかに信じることができなかったのである。 その意味において私たちのキリスト教は、疑いから始まったのではないだろうか。 そこで復活の主は、11弟子が食卓についているところに現れ、彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになられた(マルコ16:14)。けれども、考えてみると彼らがすぐに主の復活を信じられなかったのも無理もないと思われる。十字架の悲惨な出来事があって僅かな時間しか経過していなかった。彼らにとって命の主を失った直後であったのだ。その喪失感、敗北感、挫折感は半端なものでなかったはずである。私たちも想像力を働かせるならばわからないことはないだろう。やはり、同情はできると思う。 だが、イエスさまは、そのような弟子たちをお責めになられたのである。8日後に、トマスもいた11弟子たちの集う場所にお立ちになられた主は、彼が不在の時に口にした言葉を知っておられて(25節)、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(20:27)と言われた。 イエスさまは、弟子たちの事情や弱さを十分理解した上で、なお彼らの不信仰をご指摘になられたのである。 今朝、復活の主は、この場所にもお立ちになられて私たちにも「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と語りかけておられることを覚えたいと思う。 トマスは、この主の迫りに答えて、「わが主よ、わが神よ」(28節)とひれ伏した。すると、主は、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信じる者は、さいわいである」(29節)と諭された。私たちも見ないで信じる者とされたい。 不信仰とは対照的に、信じる者に与えられる幸いは素晴らしい。 マルコ16:16,17,18,20、「信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰な者は罪に定められる。信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して、害を受けない。病人に手をおけば、いやされる。弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになられた」。これを見ると、①信じる者は救われる。罪赦され聖められ永遠の生命が与えられる。②信じる者には勝利が与えられる。賜物が与えられ主の働きに用いられるようになる。③福音を宣べ伝える者とされる。主も共に働かれる。復活の主が大きな困難の石を取り除けてくださっているからである。 この度、キリストのご苦難の様子が描かれている複数の映画の一部を動画で観た。特にメル・ギブソンの「パッション」のむち打ちと磔刑は、映像として惨いものであった。改めて主のお受けになられた父なる神の裁きと呪いの恐ろしさを思わされた。また、それを傍で見ていた母マリヤを始めとする人々の精神的、肉体的ダメージがどんなに大きなものであったのかを痛感した。 しかし、復活の出来事は、それらを超越する。傷ついた人々の心を包み、癒し、どん底から引き上げるにあまりある力をもって大逆転を与えたのである。それを受けたのは当時の人々だけではない。キリスト教会にその恵みと特権が与えられていることを感謝しようではないか。 エペソ5:14(イザヤ60:1)「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照らすであろう」とある。ここに復活の大いなる喜びがある。 福音書に自己嫌悪や自己卑下に囚われている人たちが登場する。ある意味で死に支配されたような人生である。 生まれながら盲人の男(ヨハネ9:1-5)。治療や手術で癒されることができない問題で長く苦しんでいた。諦めの人生でもあった。 また、12年間長血の病で苦しんでいた女(マルコ5:25-34)。不幸な病のために財産を費やしてしまった。虚無と絶望である。 どこにも希望の光がない男と女。しかし、主イエスは、彼らをお救いになられた。そして、今も復活の主は生けるお方として、そのような一人ひとりを見ておられるのである。 このイースターの喜びの時、私たちはいつまでも暗い谷につながれていないで、立ちあがろうではないか。「信じます」と言うならば、その時、キリストは私たちを照らしてくださる。「起きなさい。立ち上がりなさい」。 トマスも信じる者となりキリストに従う者とされた。伝説によると(伝説でもその背景には何らかの事実もあるのだろう)、トマスは世界宣教の働きに召され遠く南インドに福音を宣べ伝える者とされた。そして、トマス教会が立てられるに至る。かつて、復活の主を信じることに慎重であった一人の弟子が、本気になって信じ従う者とされて以来、信仰の極み、服従の極みまで行かずにおられなくなったのだと思う。ハレルヤ! |
題「復活ー疑い」ヨハネ20:24-29
目次
