題「家族の許に帰る」マルコ5:1-20

 息子が12歳の時、怪獣映画「ガメラ2レギオン来襲」を観に行ったことがある。登場人物のせりふに、マルコによる福音書5章9節が読まれたことには驚いた。

「主が、『おまえの名は何か』とお尋ねになると、それは答えた。『我が名はレギオン。我々は大勢であるがゆえに』」と。地球外生物の大レギオンが小レギオンをたくさん生み出すところから、聖書に出て来る大勢の悪霊に支配されていた男に重ねたのであろう。  

 さて、主はガリラヤ湖の嵐を越えて向こうの地ゲラサ人の地にあがられた。するとすぐにけがれた霊につかれた人が墓場から出てきて、イエスに出会ったのである(1,2節)。これは主のご計画でもあった。 3節から9節までによると、この男は、ある聖書学者が言うように、精神的な障害(多重人格者)で悩んでいた人ではなく、霊的存在である悪霊がいて一人の人に多数の悪霊が住みついて、別個の個性と意識とをもっており、その男とは明らかに別個の人格として彼を支配していたことがわかる。マルコはその認識で報告している。

 彼らは、イエスが神の子であることを知っており、悪魔に属する霊であることを自覚していた。ここで悪霊には名前があることがわかる。 この大勢の悪霊どもレギオンに縛られていた人は、様々な点で不適応の生活をしていた。

 ①墓に住んでいた(3節)。彼は、普通人として一般的な社会生活ができない人であった。だが、今日における家庭生活の崩壊もその一つではないだろうか。夫婦、親子、兄弟姉妹に会話がなく関係が破壊されている状態は墓場のようではないだろうか。

  ②自己破壊をしている(5節)。この男は、自分を石で傷つけていた。自分の存在を否定する人、自分のことが嫌いで生まれてこなかった方が良かったと思っている人は、時としてリストカットなどの自傷行為をすることがある。自らの血を見ることによって生きていることを実感する、とも言われるが、行き過ぎると自死に至ることさえある。自分に失望している人は生きていく希望がなく人生を終わりにしたいと思ってしまう。

  ③神との関係が完全に壊れている(7節)。この男がどのような宗教的背景のある人であったのかよくわからないが、全く神を知らず律法を聞いたこともない人ではなかったようである。 「いと高き神の子イエスよ、あなたはわたしとなんの係りがあるのです。神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください」とは、悪霊の言葉ではなく、本人がイエスに向かって語っている言葉である。少し違和感があるのは、主には明確なご目的があって湖での嵐を乗り越えて、一人の男を救うために陸にあがられたのだ。主はそのように良きお方であるにも拘わらず、逆にイエスのことを彼は苦しめるかのように見ていたということだ。

  神がどのようなお方であるのかを知っている人は、そのようなことは言わないはずである。ルツ記のユダのエフラタ人出身のナオミは、ききんを避けてベツレヘムからモアブに移住してから、夫と息子二人と死別した。彼女は安定と幸せを求めてこの地に来たにも拘わらず全てが裏目に出たのである。失意の人ナオミがふるさとに帰った時、ベツレヘムの人々にこう言った。「わたしをナオミ(楽しみ)と呼ばずに、マラ(苦しみ)と呼んでください。なぜなら全能者がわたしをひどく苦しめられたからです」(1:20)と。

 神は愛であり真実であるといいながら、もし神について自分を苦しめる方として受けとめる信者がいるとするならば、神との関係が壊れてしまっているのではないだろうか。

 このように2000年前のレギオンに支配された人間のことではなく、現代においても私たち信者が悪霊に誘導され、その影響下におかれることがあることを思わされる。その意味においてこの箇所の出来事は他人事ではない。

 しかし、この5章ではっきりしていることは、レギオンにつかれた男は救われたということだ。10節に「自分たちをこの土地から追い出さないようにと、しきりに願いつづけた」とあるが、これは男ではなくレギオンの言葉である。 すると、土地の人々が飼っていた豚2000匹の群れがあったので、霊はイエスに願って、「わたしどもを、豚にはいらせてください。その中へ送ってください」と言った(12節)。主がそれを許すと霊どもが豚の中に入った時、豚の方が驚いて海になだれ落ちてみなおぼれ死んでしまったのである(13節)。

 ここでわかることは、悪霊たちは、イエスの権威を認めていたということだ。悪霊が自分たちのすみか(墓場)に行くよりか、むしろ豚の中に入る方がよいと考えたということ。しかし、悪霊は人間は制しすることができても豚は制し得なかった。悪霊も豚も海になだれ落ちようとしたのではなく、悪霊が豚の中に入ったことによって豚が驚いてしまったのである。危険な丘で自制することができず、豚の群れが一度走り出すと止めることができずそのままなだれ落ちてしまったのである。予想もできないことが起こり悪霊どもも死んでしまった豚から出て行ってどこに向かったかわからない。

 この後の豚の所有者である土地の人々の反応が興味深い。同胞が救われたことよりも財産であった豚の損失の方がはるかに大きかったのだ。「人々はイエスに、この地方から出て行っていただきたいと、頼みはじめた」(17節)とある。人々にとっては、一人の不幸な人が悪霊から解放され救われることよりも、自分たちの経済の方が優先され心配であったのだ。なんと世知辛い現実であろうか。

 一方、イエスが舟に乗り去ろうとすると、悪霊につかれていた男が主に同行したいと願い出た(18節)。キリストの弟子のひとりにして欲しいと思ったのかもしれない。19節を見ると、「しかし、イエスはお許しにならないで、彼に言われた。『あなたの家族のもとに帰って、主がどんなに大きなことをしてくださったか、またどんなにあわれんでくださったか、それを知らせなさい』と言われた。

 男は従順であった。無理を押して主に従うよりも、イエスの言われるとおりに家に帰り家族に主の救いを証する方が大切であることを信じたのである。「そこで、彼は立ち去り、そして自分にイエスがしてくださったことを、ことごとくデカポリス(十の都市の意)の地方(ガリラヤ湖の南東岸にかけての地域・未伝の地)に言いひろめ出したので、人々はみな驚き怪しんだ」(20節)とある。

 このゲラサ人の救いの出来事は、私たちの証し伝道の模範ではないかと思う。彼は、「主がどんなに大きなことをしてくださったか」「どんなに憐れんでくださったか」を知らせたのである。これは、自分が勉強して身につけた知識を伝えるのではない。自分が体験したことを話すのである。これは、私たち信者が主の救いを我がものとしているならば、誰でもできることではないだろうか。見たこともないこと、聞いたこともないこと、感じたこともないこと、受けたこともないことについて伝えるのではない。大言壮語することなく、素直にありのままの体験したことを証しすればよいのである。

 さあ、今年は教会創立91周年記念を迎えた。昨年度は、創立90周年記念の特別集会を三回開催することができた。牧師の牧会伝道21周年の記念感謝の時も持った。そして、今年はoh! Happy Voice設立25周年記念を迎えている。記念讃美「追憶」のYouTube動画がつくられ、三週間前に配信以来、多くの方々が観てくださっている。主に証しのために用いられていることを感謝したい。あの歌詞に表現されているように、当教会が主のご愛と救いを証しし宣教する教会としてさらに用いられていくように切に願っている。共々手を携えて前進していこうではないか。

『追憶』
 1.美しい 山のふもとから 賛美の 歌声 こだまして 
  良きおとずれが 四方(しほう)に広がり 救いの喜び この地に  満ちる

 2.恵みの 足あと歴史に 刻み春夏秋冬 いろどる奇跡
  今も消えない 宝の記憶 感謝の鈴が 心に響く

 ※ さあ 心燃やし 生きて行こう 永遠(とわ)に 主イエスと 共に
   さあ主イエスに 燃えて歌おう いつまでも 歌い続けます  (二回)

 3.宣べ伝えよと 福音携え 足取りは軽く 喜びに満ちて
  イエスの御顔 輝きはえる 賛美と栄光 永遠(とわ)に 続く

 ※ リピート (四回)
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