| 聖書を人間ドラマとして読むとわかり易いのではないだろうか。マルコ6章にある人間模様は、興味深い。1-6「ナザレ訪問と人々の不信仰」 7-13「使徒たちの派遣と訓戒」 14-29「ヘロデ、ヘロデヤ、サロメとバプテスマのヨハネ」 30-32「使徒たちの帰還と休養」 33-44「五餅二魚の奇蹟」 45-52「再度の海での体験」 53-56「ゲネサレの地での癒し」。 それぞれが信仰と不信仰が問われる出来事になっていると思われる。 今回は、特にヘロデ・アンティパスの周辺に注目したい。彼は、あのヘロデ大王の息子でガリラヤとベレアの領主(在位BC4年-AD39年)であった。その兄弟ヘロデ・ピリポは、イツリヤとテラコニテの領主であり、彼は妻ヘロデヤのおじであったが彼女の夫となり娘サロメの父となった。アンティパスは、アラビヤ(ナバテア王国)を支配していたアレタ王(在位BC9年-AD9年)の娘と結婚していたが、こともあろうに、異母兄弟のピリポの妻ヘロデヤと姦通の罪を犯し彼女を奪い取って結婚してしまう。 これは、明らかに許されない姦淫であった(レビ記18:16)「あなたの兄弟の妻を犯してはならない。それはあなたの兄弟をはずかしめることだからである」とある。その頃、悔い改めのメッセージを宣べ伝えていたバプテスマのヨハネが真向からヘロデを非難したのは当然のことであった。 「兄弟の妻をめとるのは、よろしくない」と言ったとある(18節)。アンティパスは、権力者に媚びることなく公に批判したヨハネのことを恐れていたようである。それで、何らかのこじつけの理由で彼を獄に投じてしまった(17節)が、彼はそれでも安心できなかった。アンティパスの背徳を責めたのは、確かにヨハネであるが、それだけではなく彼の良心であった。たといヨハネを捕らえて獄につなぐことができても自分の良心の呵責をどうすることもできなかった。一説によると彼は己の性格と品性のゆえにこの頃病的になっていたのではないかと言われている。神経症的なものである。 「それはヘロデが、ヨハネは正しく聖なる人であることを知って、彼を恐れ、彼に保護を与え、またその教を聞いて非常に悩みながらも、なお喜んで聞いていたからである」(20節)とある。このヘロデの様子に何か矛盾した感じを受ける。けれども、それが罪人の心理であり反応である。実に内面の葛藤に苦悩しながらも、自分で自分をどうすることもできなかった。 20節は、彼の精神状態がよくあらわれている。この後どのように展開していくのかというと、皆さん周知のところである。21節から28節。 一般にも知られているオスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」がある。オペラでは、作曲リヒャルト・シュトラウスが知られている。 新約聖書の歴史的出来事が題材になっているが、相当脚色されており観客サービスが甚だしい。特にサロメの舞踏では官能的な要素を入れ刺激的過ぎて上演禁止になったこともあったようだ。しかし、人間の罪深さから考えるとサロメの踊りは男どもが喜ぶ性的なものであったことは想像に難くない。 今日は聖書に忠実に見ていきたい。まず、ヘロデとヘロデヤは性格的によく似ていた人間であったようである。安逸を貪り、狡猾で、猜疑心が強く、メンツだけが異常に強く、自分たちを守るためには他人の命などどうなってもいいと思っていた。 ヘロデヤの立場で見ていくと、彼女は不義の結婚によって生活を楽しんでいたが、そこへ雷のごとくヨハネの叱責が二人に下った。ヘロデヤは烈火のごとく怒った。そこで彼女は夫をそそのかしてヨハネを捕らえさせた。本当はすぐにでもヨハネを処刑したかったが、ヘロデはそこまでの勇気がなかったので投獄するだけに留めていた。そこで彼女は、執念深く機会をうかがっていたが、ヘロデの誕生の祝宴の席が設けられることになった。これが悪女ヘロデヤにとって好機となったのだ。そして、ヘロデヤの悪だくみはみごとに成功したのだ。さらに恐ろしいことは、この大罪の片棒を娘に担がせたことである。母と子で結託したことになる。 旧約聖書の悪女の代表は、エリヤの時代の北イスラエル王アバブの妻イザベルであろう。新約聖書の悪女代表は、このヘロデヤではないだろうか。 さあ、娘サロメが、義父の祝いのために踊りを披露することになり、列席者もヘロデも大喜びであった。ヘロデは調子にのって、「ほしいものはなんでも与える。この国の半分でも」と誓った。そこでサロメは母にそそのかされて恐ろしい願いを持ち出させた。「バプテスマのヨハネの首を」(24節)と。似た者家族とは彼らのことであろう。お互いに不信仰の悪影響を与えて、結局は家族全員で滅んで行ったのである。 使徒行伝16章31節の家族の救いの真逆である。 一方、信仰の人ヨハネは、荒野で呼ばわる者の声(マルコ1:2,3)として、主イエスの道備えをした預言者である。イエスは、彼のことを、「女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起こらなかった」(マタイ11:11)と語っている。 そのような神の器が汚名を被せられ無実にも拘わらず、自分勝手な人々の策略にかかって斬首されたのである。 何という不条理な死であろうか。主イエスの十字架を思い起こさせる。だがヨハネの生涯は犬死であったのではない。彼はひたすら神を信じ、畏れかしこみ、人を恐れず、忠実に使命を果たしたのである。「いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている」(ピリピ2:15)。 今日に生きる私たち信仰者も彼の存在と生き方に感動をもって大いに教えられる。信仰と不信仰。それは、罪人である私たち人間の日常の内面の戦いである。御言葉と御聖霊によって導かれて、肉に勝ち、信仰の人として引き続いて歩んでいこうではないか。 |
