| 五餅二魚の奇蹟は、四福音書のすべてに記録されている唯一の出来事である(マタイ14:15-21、ルカ9:12-17、ヨハネ6:5-13)。教会学校の生徒は、こういうお話は大好きで不思議なことをなさるイエスさまのことを素直に受けとめてくれるだろう。特にヨハネ6章9節の「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます」とあり、聖書の登場人物が少年であることで子どもたちは興味を持ち注目するのではないだろうか。 おそらくこの少年は家族と一緒にイエスの集会に参加していたのだろう。五餅二魚は、親が息子のために用意してくれた大切な弁当であったのかもしれない。何と少年はそれを主イエスに捧げるのである。 時系列に言うと、イエスが、食事のことも忘れて神の言を聞こうとしてぞくぞくと集まってくる人々を慮って、弟子であるピリポに「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」(ヨハネ6:5)と問われた。主はピリポを試そうとして言われたのだ。ご自身ではしようとすることをよく承知しておられた。 するとピリポは、「二百デナリ(当時の労働者の二百日分の給料に相当)のパンがあっても、めいめいが少しずついただくには足りますまい」(ヨハネ6:7)と否定的に答えた。 おそらく多数の弟子たちも同意したことだろう。アンデレも常識的な人であった。 しかし、彼は一人の少年との出会いによって、それまでの常識人間から神の物理的奇蹟を信じる者に変わったのではないかと思う。というのは、少年の弁当の捧げものによって、驚くべき大きな神の祝福の御業を目撃したからである。 「おじさん、これイエスさまのために用いてください」。「おうそうか。ありがとう。ではイエスさまにお伝えしてみよう」。一応、少年の純粋な気持ちを受けとめ感謝したものの、彼は心では別のことを考えていた。 だから、「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」(ヨハネ6:9)と、すでに大人の答えを出していた。 そもそも弟子たちは、群衆の食事のことなど自分たちの与り知らぬことであると思っていたに違いない。だから「みんなを解散させ、めいめいで何か食べる物を買いに、まわりの部落や村々に行かせてください」(6:36)と言ったのだ。ところが、主イエスは全く違っていた。「あなたがたの手で食物をやりなさい」(6:37)と言われた。 彼らは、おそらく互いに顔を見回しながら、それでも主のご指示であるならば、と手分けをして群衆を相手に食物を探し始めた。これは弟子たちにとって無意味に等しかったのではないだろうか。男だけ5,000人。女と子供を合わせるならば15,000人ほどいたかもしれない。それだけの人々の腹を満たす法が自分たちには全くあるはずがない。不信と困惑の中で、動き回る弟子たち。どうにもならない現実であった。 ところが、そこにアンデレの前に少年が現れるのである。少年は持参していた弁当を独り占めしたくなかった。自分の持っている弁当をイエスのご用のために使って欲しかった。その子どもらしいやさしい心があったのだ。大人のような打算や思惑など一切ない。 ただイエスを喜ばせたかったのだろう。その真心と信仰が、この小さな少年をして「主の祝福の源」とされるのである。 主は、群衆を組々に分けて青草の上に列をつくって座らせた。そして、イエスは少年が捧げたものを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、二ひきの魚もみんなにお分けになったのである(6:39-43)。どんなに少ないパンや魚であっても主の手の中にお返しすれば、それが何百倍にもなっておびただしい群衆でさえ養うことができるのである。教会学校の子どもたちは、ここで「すご~い!!!」ということになる。 この霊的レッスンは何か。私たちの才能や能力がどんなに小さくても、主イエスの御前にすべて捧げるならば、主がそれを手にとって祝福してくださる。そして、捧げた人を多くの人々の祝福の源として用いてくださるということではないだろうか。 大人が子供を教え指導することは、実に自然なことであり大人の務めであろう。しかし、逆に子どもに大人が教えられることも多いのではないだろうか。「無意識の自己忘却」という言葉がある。肉の力、自我丸出しで、神の栄光を顕すのではなく、自分を忘れるほどに、純粋に、ひたむきに、主を愛し、主に従い、主に捧げていく信仰生活。無意識のうちにそうなれたら素晴らしいと思う。 教会学校では、このようなお話を聞きながら生徒たちは、少年と一体化して「ぼくがそこにいたらどうしただろう」と問いかけるかもしれない。そして、「イエスさま、ぼくも一番よいものをあなたにささげます」と、祈るお友だちが起こされることを期待したいものだ。大人も同様に主の御前に応答しようではないか。「あなたたちが《自分で》何か食べる物を与えなさい」(37節 詳訳聖書)。 |
題「祝福の源」マルコ6:34-44
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