| 7章5節から16節において、神の律法と人の規則。戒めと人の言い伝えが対照的に記されている。元来、ユダヤ人にとって律法は二つの意味があった。①モーセの十戒。②モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)。しかし、主イエスの時代は、エルサレム・ユダヤ教最高議会サンヘドリンが権威づけた「長老たちの言い伝え」があった。人間の知恵で考えた戒めの解釈と適用である。 パリサイ派たちや律法学者たちは、人の言い伝えを自分たちの宗教の規準、標準にしていた。今回この箇所の背景は、パリサイ派の人々が、マタイ12章14節に「なんとかしてイエスを殺そうと相談した」とあるように、彼らは手段を選ばずイエスを攻撃し訴えたかったところにある。イエスのユダヤの民衆からの人気と自分たちの言い伝え違反を問題視した彼らは、ここでもイエスを訴える口実を得るために、エルサレムから徒党を組んでイエスの元にやってきたのだ。 そして、彼らが指摘したのは、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えに従って歩まないで、不浄の手でパンを食べるのですか」(7:5)とあるように、この主張で食いついた。訴えは二重であった。 ①「言い伝えを破っている」。主の答弁は、6節から13節。 イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である。『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言い伝えを固執している」。また、言われた、『あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ、モーセは言ったではないか、『父と母を敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と、それだのに、あなたがたは、もし人が父または母にむかって、あなたに差し上げるはずのこのものはコルバン(ヘブル語で献げもの)、すなわち、供え物ですと言えば、それでよいとして、その人は父母に対して、もう何もしないで済むのだと言っている。こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言い伝えによって、神の言を無にしている。また、このような事をしばしばおこなっている」。 ②「食前の手洗いを無視している」。主の答弁は、14節から16節。 イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた、「あなたがたはみんな、わたしの言うことを聞いて悟るがよい。すべて外から人の中にはいって、人をけがしうるものはない。かえって、人の中から出てくるものが、人をけがすのである。聞く耳のある者は聞くがよい」と。ところが、弟子たちは、この譬えがわからなかった。そこで、イエスは、その解き明かしをされた。どんな食べ物でも外から入って人をけがし得るものはない、と。 そして、20節から23節と続けた。「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。すなわち内部から、人の心から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴、これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」。 私たちが、「弟子たちのうちに、不浄な手、すなわち洗わない手で、パンを食べている者があるのを見た。もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言い伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない」(2,3節)の箇所だけを読むと、パリサイ派の人たちが一部の不心得者の弟子たちだけが不浄の手で食事をしているのを見て、イエスを責めたように思われるが、実はルカ11章37,38節によると「イエスご自身が食前に手を洗うことをなさらなかった」、とある。 これはイエス一行が故意に違反し、言い伝えに対して反逆していることを意味していた。 だが果たして本当にそうなのであろうか。主は、最初の答弁で大事な事は、「神の御言の権威にこそ従うべきである」と言われた。ところが、パリサイ派の人々が持ち出したのは、「昔の人々の言い伝え」であった。確かに細かい規則や慣例のすべてが無駄であるとはいえない。 例えば教会においてもこの世にある団体として宗教法人法もあるし、教会規則もある。さらには、時代と社会において具体的生活問題についての手引書としての教団発行の「信徒必携」のようなものも必要であろうと思う。 いつか東海教区の研修会で「教会規則と法源について」学んだことがあったが、教会の規則の一つひとつは、神の御言である聖書から正当に引き出されたものでなければならないことが確認された。教会規則の土台は、神の御言なのである。単なる便宜上の人間的な規則ではない。それと共に、教会規則は、聖書と対等であったり、それ以上の権威を持ってはならないことが理解された。 主は、当時の信仰が聖書と矛盾していたことをここで実証されたのである。特に第五戒「父と母を敬え」に関して、たとい父母を尊敬しなくても、ののしるようなことがあっても、「もし人が父と母にむかって、あなたに差し上げるはずのこのものはコルバン(献げもの)、すなわち、供え物ですと言えば、それでよいとして、その人は父母に対して、もう何もしないでも済むのだと言っている」(11,12節)とある。 どこかの極道息子がいて、両親の余生の世話をしたくないので、「親の面倒をみたいと考えてはいるが、あいにく全財産は神にささげてしまったので、親に使う財産はありません」と言えば、堂々と親の扶養義務を免れることができるという教えである。しかも、その財産を神の宮に納める期限は定められておらず、親が死亡した後でもよい(口で言うことが大事だと考える。供え物ですと言えば・・)。そして、その間は自分のためにその財産は自由に使ってもよいのである。 これは律法の形式化である。律法・戒めの心、精神は姿を消している。まさに偽善的手前勝手な規則である。真の神の御言の権威は失せてしまっているのだ。これは、当時のユダヤ教の宗教指導者の偉大なる的外れである。 もう一つは、手洗いのことである。これは幼稚園の先生が園児に食前には手をきれいにしてそれから食べましょうね、と教えるようにパリサイ人が言っているのではない。彼らの汚れは儀式的な汚れである。汚れを持ったままでは神の御前に出られないという不浄のことを問題にしているのだ。日本にもそのような洗ったり清めたりという儀式がある。神道での神社参拝の際、手と口を清めるために手水(ちょうず、てみず)を使う。みそぎをし、お祓いをするのだ。それは、人がこの世において、様々な汚れを身に受けているので、そのままでは神々の前に出ることができないと感じているからである。そういうところから考え出された宗教的洗いと清めの儀式である。 しかし、ここで主は根本的問題とは、人の偽善であると言われた。主はイザヤ27章13節の適切な言葉によって、彼らを責めている。「この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる」(6,7節)と。 彼らは本当は神から遠く離れているのに、神が定めたものではない人間の戒め、人間の考え出した儀式で、神に近づくことができるかのように見せかけているだけである。そればかりか、罪の隠れ蓑にさえしている。このような偽善の仮面は外さなければならない。 偽善の問題は、一つではない。私たちもいろいろな隠れ蓑や仮面があるのではないだろうか。たとえば、信心深いクリスチャンの仮面をかぶっているが実はそうではないという偽善がある。礼拝をはじめ各集会に熱心に参加し、率先して奉仕し、身と財をもって捧げていく教会生活は、素晴らしいと思う。そういう方々は、教会の宝でもある。 けれども、表面に見られる良き業は、立派ではあるが、本当はそうではなかったならばどうであろうか。実際は自分の心の罪や醜さをカモフラージュするための隠れ蓑や仮面であったという他教会でのお話を聞くことがあった。 もう一つ、最近思わされていることであるが、神学という仮面を使う場合もある。理性優先の神学的聖書の読み方である。聖書のここは間違いであり、ここは文字どおりとらなくてもよい。ここは時代遅れだから守らなくてもよい。信じたくない箇所、従いたくない箇所を退けるたいへん便利な神学である。いろいろと論じるのではあるが、結局自分の都合のよいものだけを信じるのだ。これも偽善である。 ああ、皆さん、不信仰の罪は、外側ではなく内側にある。 自分の「己」が清められないと正しい聖書読みもできなくなることを覚えておきたいと思う。お互いに気をつけようではないか。 「わたしたちは不真実であっても」(第二テモテ2章13節)、「神は真実である」(第1コリント10章13節)。 |
題「真実な信仰」マルコ7:6-16
目次
