| 今回の参議院選挙でにわかに争点となった「外国人問題」がある。日本に居住する外国人、ぞくぞくと日本に入ってくる外国人に対して日本はどう関わりどうしたらよいのか、「差別か」「区別か」と、各政党による右派と左派の意見の衝突が過激であった。 さて、今日の箇所に、異邦人の女が登場する。ユダヤ人から見て外国人である。彼女はギリシャ人で、スロ・フェニキヤ出身であり、マタイ15章21-28節によると、マタイは彼女のことを「カナンの女」と呼んでいる。フェニキヤ人はかつてイスラエルが約束の地として嗣業(神からの嗣りの地)としたカナンの地のカナン人の子孫であった。ツロとシドン(フェニキヤ・現在のレバノン)の地方は、カペナウムの北方80Kmに位置し、ユダヤの外に位置する異邦人の地域にあった。 この地方のツロとシドンは、罪の町として知られており、マタイ11章21節によると、主は悔い改めのない町々として叱責されている。主がパレスチナを出て外に出られたのはこの一回だけなのだが、どうして行かれたのであろうか。 マルコ7章24節によると、主は何らかの理由により誰にも知られないためにある家に隠れておられたようだ。「人の口には戸はたてられない」と言われるように、誰かが主のその噂を流したので周辺に知れ渡ったのだろう。そこで異邦人のカナンの女が、「イエスのことをすぐに聞きつけて、その足もとにひれ伏した」(25節)とある。それは、彼女の幼い娘が悪霊につかれて苦しんでいたからである。彼女は、子を愛する母としてその苦しみを見過ごしにすることなどできなかった。母親として最善を願ってイエスの前にひれ伏し懇願したのだ(26節)。 さあ、ここでのイエスと母親との間に交わされた会話により、ユダヤ人であるイエスが外国人に対して差別していることがわかると指摘する人たちがいる。「イエスは差別主義者だ!」という訳である。ここ10年、この差別主義者という言葉をよく聞く。差別主義者とは、特定の属性(人種、民族、宗教、性別、出身地、年齢、障碍)を持つ人々に対して、不当な差別や偏見を持つ人のことをいう。またはその思想を持つ人を指すといわれている。 私たちの主イエスも差別主義者なのか。 女は、ギリシャ語を使うスロ・フェニキヤ(ローマ帝国の属州であるシリヤに含められていたフェニキヤ)の女であった。どう見ても異邦人なのだ。その外国人がユダヤ人のイエスから非情な差別を受け辱められた、と解釈するのである。しかし、その解釈は本当に正しいのであろうか。その辺のところをはっきりとさせたいと思う。 この母親と娘の出来事については、マルコよる福音書だけではなく、マタイによる福音書に平行記事として記されている。マルコでは、母親が娘のことで救いを求めて一生懸命懇願しているにも拘わらず、イエスが一度だけ退けたように記されているが、マタイではもう少し丁寧に三段階でイエスがこの母親を撥ねつけようとしたことを記している。そこには、あのやさしい親切でいつくしみ深いお方のお姿はない。一体どうしたというのであろうか。 「『主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます』と言って叫びつづけた」(マタイ15:22)とある。 ①マタイ15:23(人格を無視しているのか)。「しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみ もとにきて願って言った、『この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから』」とある。 ②マタイ15:24(関わることを拒否しているのか)。「するとイエスは答えて言われた、『わたしは、イスラエルの家の失わ れた羊以外の者には、つかわされていない』。 ③マタイ15:26(良きものを受ける資格なしとされたのか)。「イエスは、答えて言われた、『子供たちのパンを取って子犬 に投げてやるのは、よろしくない』。 ある人々にとっては、イエスはとんでもない失礼な差別主義者に見えるかもしれない。けれども、そうではない。これまでにも、異邦人がイエスに助けられたことが度々あることを忘れてならない。しかし、ここで主はこの母親の信仰とその態度と姿勢を問われたのである。信仰を試されたといえる。 それには、三つのハードルがあったのだ。 1.主は、母親の懇願にも拘わらず「ひと言もお答えにならない」、弟子たちも「この女を追い払ってください」と妨害した。無視され妨げられても女は、引き下がらなかった。母親は、娘のことを、「わたしをあわれんでください」(マタイ15:22)と言っている。娘と自分は一つなのだ。諦める訳にいかない。これは謙遜でないとできない。 2.私は、ユダヤ人以外に遣わされていない。あなたは外国人であり関係ない。これはある意味で突き放されたのだ(24節)。しかし、女はイエスが拒否しても、それで怯むことはなかった。「女は近寄りイエスを拝して言った、『主よ、わたしを助けてください』(25節)。娘が救われることは、自分が救われることであることを信じて疑わない母がここにいる。これは、この母親が自己愛者(ナルシシスト) であったということではない。自分の命に代えてもという極限の他者愛を意味している。 3.ユダヤ人に用意された神の恵みを外国人のあなたに与えることはできない(26節)。こういう言葉を投げかけられるならば普通の人は、激怒し憤慨し立ち去るのではないだろうか。「これほどまで頼んでいるのに。なんと惨いお方か。もう結構です」。それですべてが終わってしまうこともあり得る。 けれども、この母は違っていた。「主よ、お言葉どおりです。でも、子犬もその主人の食卓から(子供たちの)落ちるパンくずは、いただきます」(27節)と言った。これは三段目の遜りである。当時ユダヤ人は異邦人のことを犬と呼んで蔑んでいた。しかしここで、主は犬ではなく家族に愛されている子犬(愛玩動物)と表現されており、母親はそれに呼応するように、神の子供たちであるユダヤ人のために備えられた恵みも、その恵みのひとかけらでも子犬のような自分たちもいただくことができます、と自らの信仰を言い表し告白したのである。 これは、驚くべき女の信仰である。主は感動をもって言われた。「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」と。これは、「あなたのこの信仰のレッスンは終わった。あなたはよくこの試練に耐えた。あなたの願いが適うように」と、主がお墨付きを与えられたことを意味している。 「その時に、娘はいやされた」(28節)とある。マルコでは、「その言葉でじゅうぶんである。お帰りなさい。悪霊は娘から出てしまった」(29節)と言われた。 主のなさることには、常に意味と目的がある。主はユダヤ人を愛し、異邦人である外国人を同じように愛されるお方である。私たちが、もし何か祈る場合、信仰を持って神ににじり寄って迫っていこうではないか。たとい一度二度祈りが退けられたとしても、神を恨んだりヘソを曲げたりするようなことがないように、常に自らの信仰の姿勢と態度を整えておきたいと思う。 |
題「にじり寄る信仰」マルコ7:24-30
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