| 「神さま、霊眼、霊耳を開いてください。あなたの御心がよくわかるようにしてください」と祈られる「活水の群」の長老方のことを思い出す。 連合聖会などで、説教前によく祈られていた。若い頃は、「霊眼、霊耳」という言葉が奇異に感じたのだが、霊的なことが理解できるようになってからは、その意味するところがよくわかるようになった。 「主よ、今から神の御言葉を聴きます。しもべの霊的な目を開き、耳を開いてください。神の生きておられる現実を信仰によってはっきりと見て、神の語られる御声を信仰によって漏らすことなく聞き、悟ることができるようにさせてください。待ち望むしもべの祈りを適えてくださることを信じます」と祈っておられたのである。 マルコ7章31節から37節のところで、耳が聞こえず口のきけない人が、主によって癒される記事がある。主は、ツロからガリラヤ湖に帰っておられた。8章1節から10節では、先の五餅二魚の奇蹟と同じような出来事が記されている。その後、ガリラヤ西岸地方ダルマヌタ(マグダラに近いところ)に行くと、そこではパリサイ人たちがイエスに「天からのしるしを求めて」議論をしかけてきた(8:11-13節)。主はそれをかわして舟に再び乗ってベツサイダに移動された。その途中、主は弟子たちに「パリサイ人のパン種(偽善的な生き方)とヘロデのパン種(世俗主義)とを、よくよく警戒せよ」(8:15)と言われた。 弟子たちはその意味がわからずとんちんかんな反応をするだけであった。そこで、主は、「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。また思い出さないのか」(8:18)と、五餅二魚と七つのパンとわずかな魚による神の奇蹟を想起させた。大事なことは、「信仰の目を開き、信仰の耳を開くこと」である。 これらの一連の弟子たちの体験学習により、今日の私たちにも、目をあけ、耳をあけさせようとしておられるのではないだろうか。 主がベツサイダに着くと、人々は一人の盲人を連れてきて、さわってやっていただきたいと願い出た。中東のこのような地においては、眼病は非常に多かった。砂埃や強すぎる太陽光線による眼炎はとても厄介であったようだ。衛生や清潔について無知であった人々にとっては、眼病はすぐに悪化した。膿で覆われた両眼に蠅がしつこくとまろうとすることも珍しいことではなかった。こうした状態から病気は広く遠く感染していったのである。周辺の人々は、そんな男に同情しイエスに癒してほしいと願い連れてきたのである。主はその求めにすぐに応じた(8:22,23A)。 「人々が、ひとりの盲人を連れてきて、さわってやっていただきたいとお願いした。イエスはこの盲人の手をとって」とある。 第一に、主は、その人と二人だけになるために、盲人を人々から離し、村の外に連れ出された。それは、主の男に対するやさしさであり思いやりである。この盲人は、生まれつきであったのだろう。これまで一度も光輝く世界に触れたことはなかった。また威圧的な群衆の多さも未体験であった。もしこの男の視力が突然回復されたならば、明らかに彼は刺激が強すぎて当惑してしまったのではないだろうか。よく優秀な名医は、人の心を大切にすると言われているが、まさに主イエスはそのように彼の心を慮ったのである。 第二は、主は癒しを行う場合、人の理解し得る方法を用いられることがわかる。古代世界において、唾液の持つ癒しの力に奇妙な信仰があったようだ(確かに殺菌抗菌効果はいくらかある)。しかし、このような重症で難しい眼病に唾液が効果があるのかどうかはわからないことであっただろう。それでも、主はその人が理解できるものを用いられたのだ。「その両目につばきをつけ」とある。「イエスは、・・・両手を彼に当てて、『何か見えるか』と尋ねられた」(23節)。すると、男の目は徐々に見えるようになった。勿論、唾液で癒されたのではなく主の御力が働いたのである。 第三、福音書に記録されている主の癒しは通常突然瞬間的に行われていた。ところが、この男の場合は、漸進的であったことは独特である。瞬間的ではなく徐々に癒されていったのである。この奇蹟は、段階的に男の視力を回復させている。このことから私たちは、神の恵みは、何でも一気に瞬間的に与えられるものであるのではなく、時として徐々にあたえられる恵みもあることを教えられる。 「両手を彼に当てて、『何か見えるか』と尋ねられた。すると彼は顔を上げて言った、『人が見えます。木のように見えます。歩いているようです』。それから、イエスが再び目の上に両手を当てられると、盲人は見つめているうちに、なおってきて、すべてのものがはっきりと見えだした」(23-25節)。 彼は、生まれながら盲目であったが、主イエスとの出会いによって、肉の目と心の目を開かれて、新しい人生を歩み始めたに違いない。そして、それ以来、本当に聞かなければならないことを聞く人としてイエスに従って行ったのではないだろうか。 今日は、平和主日礼拝である。広島(6日)と長崎(9日)の原爆記念日と終戦記念日(15日)の月を迎えている。人間はどんなに人類歴史を重ねても戦争をやめない。それは、人間の内側に原罪のパン種があるからだ。それが取り除かれないならば、本当の平和はこない。もしなお私たちの心の内にこのパン種があるならば、十字架の楔を心に打ち込んでいただき罪に死に、キリストのいのちに生きる者とされたい。 「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2:19,20)。 |
題「目が見える—平和」マルコ8:1-26
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