題「人生の主役は誰か」エレミヤ29:10-14

 「自分の人生の主人公になれ。あなたは人生で自分の望むどんなことでもできるのだ」とは、プラトンの言葉である。また「誰だって、自分の人生という物語の主人公なのだ」とは、米国の短編小説家、ジョン・バースの言葉である。他にも多くの人生のやる気を出させる名言なるものがある。

 皆さんは、どのような言葉が自分の人生の助けになるだろうか。「人生は舞台である」と言った人もいるが、確かに一つの表現だと思う。そして、その人生の舞台の主役を演じるか、脇役を演じるかによっても人生の価値が違ってくるように思われることもある。それゆえに、自分の才能と能力により自身の選択でどうにでもなるかのように考えてしまう。

 しかし、お互いの人生というものは単純に脇役ではなく主役になるだけでその成功をはかれるようなものであろうか。私たちは、どちらであっても人々の記憶に残る人生の名優として地上を去りたいものである。

 さて、先の名言は人が人生に行き詰まったり、躓いたり、失敗した時の励ましになる言葉であろう。もう一度やる気にさせてくれるかもしれない。では、この世の知恵者ではなく、聖書は私たちの人生の過去、現在、未来においてどのようなことを語っていてくださるのだろうか。

 一つ選び出すと、「わたしの時はあなたのみ手にあります。わたしをわたしの敵の手と、わたしを責め立てる者から救い出してください。み顔をしもべの上に輝かせ、いつくしみをもってわたしをお救いください」(詩篇31:15,16)とある。この「わたしの時」とは、別訳で「わたしにふさわしいとき」とあり、それは、過去、現在、未来のこと。また人生の良い時も悪い時もである。ここで詩人は、自分の人生は神の御手にあると告白しているのである。

 これは、自らの一生が神の支配と導きの中におかれていることを意味しているのである。

 こういうみ言葉もある。「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主をみとめよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ。そうすれば、あなたの身を健やかにし(いやし)、あなたの骨に元気(潤い)を与える」(箴言3:3-8)。

 これらのみ言葉は、人生の成功者は、創造主、神、救い主を人生の主役であることを認め、そのお方によって守られ支えられ導かれていく者であることを示唆している。「わたしの時」とは神によって生かされていくことだ。これ以上の安全で安心なことはない。

 しかしながら、多くの人々は、目に見えないいるかいないかわからないような神を信じるよりは、自分の人生の主役は自分であると主張し、自立的かつ自律的に歩んでいく方が正しいと思っているのではないだろうか。そもそも一般の人々によく言われていることは、神などに頼る人は、意志薄弱な信念のない人で何かに依存しなければ生きていけない自信のない人だ。そんな情けない憐れな人間だけにはなりたいとも言われることがある。それは、本当にそうなのだろうか。

 神が自分の人生の主役であるということは、いわゆる信心によって「何もかもあなた任せ」のような生き方をするようになることではない。当然自分の意志でものを考え判断して行動することはあり得ることである。何も自分で努力もしないでただ祈って「棚からぼた餅」的に幸運を待つようなことではない。「あなた任せ人生」ではない。

 聖書は、私たち人間が創造主である神によって計画と目的があって造られていることを述べている。誰一人偶然で存在している人はいないのである。そして、その神は私たち人間を愛しておられ、神のかたち(イメージ・知情意ある神と交わりができる存在)に似せて造られた者としてふさわしく生きて欲しいと願っておられるのだ。しかし、私たちの祖であるアダムとエバは、神と愛による契約を結んでいたにも拘わらず、それを自由意志を乱用して破ってしまった。

 それ以来人間は、原罪(ゼネラル・スィン)を持つ者として神との関係が断絶してしまったのである。それは、創造主から離れて、糸の切れた凧のように制御できなくなり堕落してしまったことを意味している。いきおい人間は神のことがわからなくなり、神のルールを失い自分が良かれと思うことを選び取って生きるようになったのである。そのライフスタイルが、「俺が大将だ。私が主役だ」というものであった。かくして創造主によって造られたはずの人類が「神なき人生」をそれぞれ生きるようになったのだ。これが私たち人間の不幸の元凶なのだ。

 そのような罪人を神は救うために救い主イエス・キリストをこの世にお送りになられたのである。「人の子(キリスト)がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」(ルカ19:10) 「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16) 神は本来神の愛の懐に抱かれて生きるべき存在として人間をお造りになられたが、そこから罪によって失われてしまった。しかし、主なる神は、私たちを愛の懐に引き戻してくださったのである。電気は電線の中を流れる時に目的のために用いられる。電車は鉄道線路の上を走る時に目的のために用いられる。私たち人間は、造られた目的に添って神に立ち返りそこで生きることが最も幸せなのである。それは、決して束縛でも不自由なのではない。

 さて、イスラエルの歴史的出来事によってその事例としたい。エレミヤ書29章では、南ユダが神への背信と不従順によってバビロン捕囚となってからのことが記されている。彼らにとっては、苦難の時であるが、それには神のご目的があった。エレミヤは、バビロンの捕囚となった民に書簡を送り、偽預言者に惑わされることなく、その地に落ち着いて生活すべきことを教えた。そして、神の解放の時の70年間が満ちるならば必ず捕囚として解放され回復されることを約束したのだ。かつてユダのイスラエルの民は、自分の良かれと思うことを好き勝手に選び取り自由に生きてきた。その結果がユダ王国の滅亡につながりバビロン捕囚の民となり下がってしまったのである。民は幾度神に逆らうのであろうか。これはまさに自業自得というものである。

 彼らは悔い改めのために神の御旨に服する必要があった。それが70年間であったのだ。イスラエルはその間忍ばなければならなかった。そこで、主は語られた。「わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災いを与えようというのではなく、平安を与えるものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである」(11節)と。

 これこそ神の民に対する御心であった。そして、今日も私たちに対して語られる約束でもある。もし私たちが人生の主役のつもりでやってきて事がうまく進まないとするならば、立ちどまって熟考するべきであろう。
 そして、もう一度主が主役であることを思い返そう。イスラエルは真の霊的な神への信仰を呼び戻され、神に呼ばわり祈る。そして、主はそれにお答えになられるのである。これは、エルサレムの神殿内のことではない。異教の地バビロンでの信仰復興である。民が世界のどこにいても一心に神を尋ね求めるならば、神は彼らに会ってくださるのである(13節)。そして、神は民をエルサレムに導き帰してくださる(14節)。本来いるべきところに連れ戻してくださるのである。私たちにも適用しようではないか。

「あなたは初めの愛から離れてしまった。そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起こし、悔い改めて初めのわざを行いなさい」(黙示録2:4,5) 
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