| 健康ブームが続いている。確かに一般的に健康意識が高くなっていると思われる。WHOの定義では、健康とは「肉体的、精神的に、完全に良好な状態にあること」とある。日本においては、健康寿命についても言われ「健康でなるべく長く生きて、病むことなく他者に迷惑をかけないでポックリ死んでいく」。そのような人生が理想的だそうである。 よく聞く「ピンピンコロリ」とは、1979年に長野県体育学会での発表論文がその由来らしい。今では、「ピンピンコロリを目指そう!」的な運動まであるそうだ。とにかく、今日健康に関心のある方々はたいへん多いと思う。 「健康は大切だ。命よりも健康だ」と言う人までいる。 それに答えるように書店では、何々健康法という本が山積みされているのを見る。そこには、食生活に注意しよう。心身のために程度な運動をしよう。ストレス社会での適当なストレスを発散する法を知ろう等々、どれもこれも大切なことが記されていると思う。しかしながら、思ったように生きられないのも私たちの人生ではないだろうか。どんなに自分の健康維持に対して、気を使い、お金を使い、時間を使っていても、病気になることはあるし、老いの様々な問題は齢を重ねるに伴いついてくるものであろう。高齢者となってどんどん青年になることはない。「お若いね、お若いね。」と周辺の人たちにホメられて調子に乗ってしまうと思わぬところに落とし穴があって大変な痛い目に遭うこともあろう。 私たちは、自分の人生がたとい「ピンピンコロリ」でなくても、尊い健康法が聖書を通して与えられていることを感謝したい。 さて、ハーランド・ヘイスチング医学博士(海外宣教師)がこう言われている。「神とイエス・キリストを知る知識が病気へのただ一つの解答である」と。「もし人々が、神のうちに安息し、彼に思い煩いを委ねるならば、キリストは万事を益としてくださる。そして、私は外科医であるがキリストは病院と医療とを自由自在に用いられるお方であると信じている。神は病院の医師や看護師を通して、病気の人々を扱われる。それらの人々が信者でなくても、神の器(道具)として患者のいやしのために用いられる。外科医は手術をするが、患部の細胞が成長して傷口をふさぐようにと、神のいやしのいのちが働くのである。外科医は、治療のために最善を尽くすが、いやすのは医師ではなく神である。そのいやしのいのちは神からくるのだ」と。こういう謙虚な姿勢で医療現場におられる医師は技術的にも祈りを添えて日々努力しておられるのであろう。 さて、聖書の中に身体と心をいやす人類の熟練した医師であるイエス・キリストが紹介されている。ヨハネによる福音書5:2-9、「エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。その廊の中には、病人、盲人、足の不自由な人、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた。・・・さて、そこに三十八年のあいだ、病気で悩んでいる人があった。イエスはその人が横になっているのを見て、また長い間わずらっていたのを知って、その人に『なおりたいのか』と言われた。この病人はイエスに答えた、『主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです』。イエスは彼に言われた、『起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい』。すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った」。 今も昔もいたるところにおいて病人で満ちている。ここで38年間も迷信によって縛られ長患いをしていた人が、イエスさまによっていやされるのである。主イエスは、今も昔も変わらず、私たちをいやしてくださるお方なのである。また体のいやし主であると同時に、罪から救ってくださる贖い主なのである。どんなに罪の深みに陥っていたとしても、イエスさまを救い主として信じ告白するならば、その人は罪赦され魂がいやされるのである。 旧約聖書エレミヤ書の33:6「見よ、わたしは健康と、いやしを、ここにもたらして人々をいやし、豊かな繁栄と安全を彼らに示す」とある。預言者エレミヤは、BC627年-BC583年(44年)の間、南ユダ王国において神の言葉を王と民に語った。その厳しい預言者としての働きのゆえに、彼のことを悲しみの預言者と呼ばれている。このところを読んでその意味を理解するためには、この時代の国際情勢がわかっていないと難しい。この機会にイスラエルの歴史を学んでいただきたい。そうするならば、現代の中東問題も見えてくると思う。 世界の覇権国家の一つアッスリヤ帝国が北イスラエル王国を滅ぼし、次にバビロン帝国が南ユダ王国を崩壊させた。民はバビロンに捕囚として引いていかれた(すべての国民ではなくエリートの人々が中心であった)。バビロン捕囚は、最も暗い、悲劇的な時代であった。これは選民イスラエルの神に対する背信と不従順の結果であった。 しかし、31章から33章は、慰めの章である。エレミヤは、バビロン(カルデヤ人)に攻略され壊滅させられたユダとエルサレムの人々、捕囚の民として捕えられた人々に対して慰めを語っている。6節は、その一つのメッセージである。これは「健康といやし」という言葉が使われているが、実際はイスラエルの国民の健康の事柄ではなく、もっと深い南ユダ王国の国家としての霊的な回復の約束の言葉である。 彼らは捕囚後70年が経過した年、神に憐れまれ、罪赦され、懐かしの祖国に帰還することが許される。エレミヤ29:10-11にはこう記されている。「主は言われる、バビロンで七十年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、わたしの約束を果し、あなたがたをこの所に導き帰る。主は言われる、わたしはがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災いを与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである」とあるとおりである。 それは、彼らイスラエルの信仰がリバイバルされることであり、彼らの民族としての霊的な存在そのものがいやされることを意味している。そして、滅びの聖都エルサレムは喜びの名となり、誉れと栄えとなるのだ(33:8-9)。 私たちは、はばからず、このイスラエルの歴史において実際に起こった回復といやしの出来事を、自身にも適用しようではないか。神は私たちの人生をもいやそうとしておられるのである。 私は何人かのクリスチャンドクターを存じあげているが、それぞれに入信されたきっかけがある。同郷のある医師からこのようなことを伺ったことがある。その方が初めて教会に来会された時は、医師としてではなく不治の病の結核患者としてであった。青年時代のことである。当時の肺結核は、治癒が難しい病気の一つであった。伝染病であり、特効薬もなく、本人は死ななければならないし、その上、周囲の人々にも迷惑をかけるような病であった。彼は大学病院に入院していたが、次第に病状が悪くなり絶望していた。その頃、彼が考えていたことは、普通の医師にかかっていると私は死ぬが、もしスーパーマンのような奇蹟を行う医師に出会うと、私の病気は治るということであった。 そんな青年医師が聖書を読んでいくと奇蹟の記述がたくさん記されていた。たいへん驚くとともにその奇蹟を知って彼は大いに喜び、希望に心満たされたそうである。科学者であり医学者として生きる人が、聖書の神に向き合って真剣に求道した。間もなく、彼はイエスさまが行った奇蹟を信じ、また自分の罪の贖いのためにイエス・キリストが十字架につけられ身代わりに死んでくださったこと、三日目に勝利者として復活されたことを信じた。 すると、神の恵みと祝福が彼の体と魂に働いて罪の赦しと不治の病もいやされてしまった。まさに「主は生きておられる!」、それがこの青年医師の神体験なのである。この方は、ご老齢になられるまで徳島の地域医療のために多大な貢献をされ、また教会内外でイエス・キリストの信仰の証人として、神さまに用いられ、精一杯ご自分の人生を全うして天にお帰りになられた。ハレルヤ! 主を誉め称えよ! |
題「健康といやし」エレミヤ33:2-9
目次
