題「再臨を待つ人」第二ペテロ3:14-15

  世の終わりにキリストが再び来られることを再臨という(使徒1:11)。今回は再臨について学びたい。
 この第二ペテロの手紙は、1章1節に「シメオン・ペテロ」と記しているように使徒ペテロが書いた書簡として理解してよい。有名な変貌山の出来事(マタイ17:1-5 「彼らの目の前でイエスの姿が変わり、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった」。第二ペテロ1:16「わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだから」)について言及しており、ペテロの殉教についてキリストが予告しておられたことにも触れている(ヨハネ21:18,19「あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう(殉教)。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけて、生きたくない所へ連れて行くであろう」。第二ペテロ1:14「わたしたちの主イエス・キリストもわたしに示して下さったように、わたしのこの幕屋を脱ぎ去る時(死)が間近であることを知っているからである」)と。

 年代は、AD66年、67年頃と考えられる。ペテロが殉教する前に記されたところからおそらくローマで書かれたと思われる。執筆事情は、初代教会において偽教師や異端が現れ、次第にその教えが広められ教会が毒されていくことにペテロは危惧の念を抱き教会に重要な警告をしたのである。

 今、パレスチナ・イスラム問題について著しい偏向報道やフェイク情報を流している日本のマスメディアである放送各局や新聞各社がある。彼らはどうやら間違ったニュースを全国に流してそれを常識としようとしているのではないか。
 一方、彼らの思想傾向を見抜いてそれを念頭において、日本国民に事実に基づいて正しい情報をネットで発信している少数派ながら良識ある人たちがいる。その人たちの勇気と働きを感謝したい。

 彼らの内に燃える「なんとしても正しい情報を知って欲しい」という情熱とこの手紙を書いたペテロの動機が重なるようにも思える。あなたはどうであろうか。さて、偽教師や異端者はいつの時代にも出てくる。初代教会から始まり「手を替え品を替え」いろいろな人物や教えがこの世にはびこるのである。しかしながら、私たちキリスト教会にとっては「恐れるにあらず」と言いたい。

 なぜならば3章2節に、「聖なる預言者たちがあらかじめ語った言葉と、あなたがたの使徒たちが伝えた主なる救い主の戒めとを、思い出させるためである」とあるように、これを守り、思い出すならば私たちは異端から守られるのである。私たちは、聖書に留まり、聖書の真理に立脚するのである。その神の言葉に付け加えることも、割引きすることなくそのとおりに信じていくのである。十全なる神の言葉を無視するから、いろいろな異端が出てくるのである。統一協会、エホバの証人(ものみの塔)、モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)、混合教の幸福の科学など。

 しかし、3節、4節に、「あざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲望のままに生活し、『主の来臨の約束はどうなったか・・』」と言って、クリスチャンを嘲笑するとある。実は、このようなあざける者が起こることこそが、世の終わりの証拠でもある。神の真実なる約束を疑わせる目くらましの悪魔の所業である。そこで世の終わりに起こる再臨について三つのことを見てみよう。

 ①再臨が遅くなっているように思われる理由(15節)。それは、神の寛容と忍耐のゆえである。すべての人が神に背を向けている罪を悔い改めて救われるのを神が待っておられることを知らなければならない。「愛する者たちよ。この一時を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔い改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」(3:8-9節)とあるとおりだ。千年は一日のようであるとは、詩編90:4の御言葉に起因する。「あなたの目の前には千年も過ぎ去れば、きのうのごとく、ひと時のよう」とある。「遅い」とか「早い」とか考えるのは、時間の下にある人間の考え方であるが、神は時間に制限される中におられない。主なる神は時間の支配下におられないのであり時間を超越しておられるのである。神は時間をお造りになられた永遠なる神であり、私たち時間の流れに生きる人間との大きな違いを知らなければならないと思う。

 ②主のその日は、盗人のようにやってくる(10節)。「主の日は盗人のように襲って来る」。その日はいつあるのか人にはわからない。何年何月何日何時何分なのかは、人に知らされていないのだ。「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる」(マタイ24:36)。この「盗人」という表現がおもしろい。これは、盗人は人が寝ている間に思いがけなく襲ってくることを想起させる。このように再臨はある人にとっては備えができていないので恐ろしい裁きとなる。しかし、心の目を覚ましいつ再臨が起こってもよい人にとっては、慌てたり恐れたりする必要はない。マタイ25章での10人のおとめの譬え話を自身に適用しようではないか。ここでの花婿とは、再臨のキリストである。おとめたちは再臨を待望する者たちであろう。五人は思慮深く、五人は思慮浅かった。この違いは何であろうか。心の準備ができているかいないかの違いであろう。準備ができていない人とは、まず再臨などはないと思っている人。自分がなぜこの世に存在するのかと問うこともなければ、人生の目的を考えることもない人。実に刹那的に日々惰性で生きている人ではないだろうか。

 ③再臨待望の備える法(11,14節)。それでは、五人の思慮深いおとめのように心の備えができている人とはどういう人なのか。ア、神をどんな時代になっても信じて敬虔な態度で生きることである。平凡なクリスチャン生活の中で、主の十字架の贖いと救いと聖潔を信じて日々歩んでいること。忠実な僕として主に仕えること。
 イ、主イエスを伝えること。キリストはご自分が来られるのはノアの時のようであると言われた。「人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう」(マタイ24:37-39)と。その背景になっているのが、創世記6章5-20節である。そこにノアの箱舟と大洪水の裁きのことが記されている。これは、神話ではなく史実である。主イエスご自身がそれを表明しておられることを覚えよう。

 しかし、再臨などないと主張する人々は、5節にあるように、「彼らはこのことを認めようとはしない」のである。神の警告に耳を傾けない者は悲しいことであるが、救われる望みはない。それは、自分の考えを悔い改めることなく良かれと思う欲情のままに生きようとするからである。

 再臨の日は、「恵みの時」「救いの日」(第二コリント6:2)が終わってしまうことだ。何としてもその日までに主なる神はひとりでも多くの人がキリスト信仰によって救われることを望んでおられる。この終わりの様相を呈している今の時代(自然も人間も壊れているのではないか)に生きる私たちもこの事実を誰かに伝えることが主によって求められているのではないだろうか。神の御心を知りながらその重要な事柄を決して隠してはいけない。これももう一つの大切な準備なのだ。

 「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまで寛容な心でよく教えて、責め、戒め、
  勧めなさい」(第二テモテ4:2)
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