題「降誕と預言」ミカ書5:1-4

 「神話」とは何であろうか。辞書によると『宇宙、人間、動植物、文化などの起源・創造などを始めとする自然・社会現象を超自然的存在(神)や英雄などと関連させて説く説話。実体は明らかでないのに、長い間人々によって絶対のものと信じこまれ、称賛や畏怖の目で見られてきた事柄』とあり、「天の岩戸(あまのいわと)」や「山俣の大蛇(やまたのおろち)」「稲羽の白兎(いなばのしろうさぎ)」がそれである。また「おとぎ話」とは、『子どもに聞かせる伝説、昔話など。「桃太郎」「かちかち山」の類。また比喩的に現実離れした空想的な話のこと』とある。どちらも曖昧ではっきりしないものであるようだ。

 では、旧新約聖書の記録は、これらの仲間なのであろうか。クリスチャンは2000年間、神話やおとぎ話のようなものを信じてきたのであろうか。そうではない。キリスト教会は聖書を誤りのない神の言葉として信じてきた。ただ盲目的にそう信じているのではなく、それを裏づける根拠の一つとして「預言」をあげることができる。日本では普通「予言」という漢字を使っているが、ノストラダムスの大予言とか、マヤ文明の長期暦による2012年人類滅亡の予言があった。またキリスト教系の異端やカルト団体もこの「予言」を用いている。中には一度くらい当たるかもしれないが、多くの場合はみなはずれている。

 しかし、聖書の預言は、そういうものとは異なっている。旧約時代においては、預言者たちが神の約束の言葉を預かり、それをイスラエルの民に伝えた。新約時代では、特定の預言者ではなく必要に応じて信徒にも預言する賜物をお与えになった。黙示録などは使徒ヨハネに預言の言葉として与えられたものだ。創造主である神は、人間が思慮深く注意深く生きていくために、人類の実際の歴史を、それが起こる何千年、何百年も前から聖書に預言された。そして、神の言葉を預かった者たちは、神が啓示されたこと(深い眠りに似たトランス状態や霊が憑依するようなものではなく、実に理性的、意識的に神の言葉を聞きそれを秩序立って言語としてまとめること)をただ口で預言したのみならず、記録として残し、後代の人が実際に歴史と照らし合わせることができるようにした。そして、今日私たちは聖書と世界史とを並べて比べることによって、預言が文字通り実現していることを客観的に実証することができるのである。これは神の知恵であり憐れみであったと思う。

 さて、聖書の主人公はイエス・キリストである。キリストは予告なしに突然現れたのではなく、彼が生まれることは何千年も前から聖書に預言されていた。キリストがいつ頃、どこで生まれ、どのような生涯を送り、どのような死を遂げるのかも、生まれる前の何千年、何百年も前から旧約聖書に記されていたのだ。そういう人は歴史上キリスト以外にいない。驚くことに旧約聖書にはキリストについては、だいたい350ほどの詳しい預言があることが知られている。今回はその一部をあげたい。

 ①キリストは、人類の祖アダムを通して人間の子どもとして世界に来ることが預言されている。(創世記3:15)
 ②キリストは、イスラエルの十二部族の中でもユダ族から生まれることが預言されている。(創世記49:10)
 ③キリストは、ダビデ王の家系に生まれてくることが預言されている。(サムエル記下7:12-13)
 ④キリストが、ベツレヘムという町で生まれることが預言されている。

 今日のミカ書5章2節では、旧約時代の預言者ミカが、キリストが生まれる700年前に、救い主が生まれる地はユダの地ベツレヘムであると預言している。「ベツレヘムエフラタよ、あなたはユダの民族のうちで小さいものだが、イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである」と。しかも、この預言は新約時代のマタイによる福音書2章6節以下やルカによる福音書2章4節から7節のところで成就した。後で確かめていただきたい。ベツレヘム(パンの家の意)は、エルサレムの南8Kmにある小さな村の一つ。他にゼブルンの地にベツレヘムがありそれと区別するために、エフラタ(実り豊かなの意)とかベツレヘムユダと呼ばれていた。このユダのベツレヘムというピンポイントでイスラエルの君である者が生まれるとは驚くべきことである。そして、ミカによるとその出現は神の永遠の日よりのご計画であったというのである。

 この預言の言葉から言えることは、キリストの誕生は、私たち普通の人間の誕生と全く異なっているということである。私たちの場合は、母の卵子と父の精子が結合して受精卵になった時から命として存在する。しかし、主イエスの場合は、母マリヤの胎内に宿った時から彼の存在が始まったのではなく、永遠のかなたから全人類の救いのために来られたというのである。このような預言の成就を見て驚嘆しない者はいないと思われるが、2000年前、多くの人々は冷ややかであった。そして、今日も多くの人たちは、そのことについては全く無関心であり通り過ぎていく。全く悲しい限りである。

 しかし、世界ではじめのクリスマスは、小さな小さなクリスマスであったかもしれないが、志ある者たちにより、最も喜びのあるクリスマスであったことを思う。1970年、山内修一さんが、歌集「友よ歌おう」の中で、「世界ではじめのクリスマス」を作詞作曲している。一節と最後だけでも紹介したい。

 「世界ではじめのクリスマスは ユダヤのいなかのベツレヘム 宿にも泊まれず 家畜小屋で マリヤとヨセフの二人だけ 赤子のイェスさま草の産着 ゆりかごがわりの飼い葉おけ やさしい笑顔に見守られて 恵みの光が照らすだけ」
「世界ではじめのクリスマスは 小さな小さなクリスマス けれども喜び満ち溢れた 気高いまことのクリスマス グローリヤ グローリヤ グローリヤ インエクチェルシスディオ」と歌っている。なんともいえない世界で最初のクリスマスの様子があらわされていると思う。

 さて、マタイ2章1節から12節の箇所によるとイエスさまがお生まれになられて数日後、東の国の博士たちが救い主を訪ねてエルサレムにやってきたことが記されている。「ユダヤの王としてお生まれになったお方はどこにおられますか」と聞いた時、この問いに答えた祭司長たちや律法学者たちは、預言の言葉を引用して「それはベツレヘムです。預言者がこう記しています」とミカ書を指し示した。この質問に対する聖書の専門家としての答えは全く正しい。正解である。しかし、不思議なことに預言の言葉は知っていても、自分たちはベツレヘムに行って救い主を礼拝しようとしていないのだ。他人事なのだ。

 このことは、聖書の専門家で預言の知識を知っているとしても、それを信じて受け入れていなければ無意味であることを教えている。こうして、救い主は、エルサレムの王宮の宮殿ではなく、貧しい馬小屋のような場所に生まれたが、信仰と志ある者たちは、お生まれくだっさったという約束の成就として「救い主が来てくださった」という事実に感動して彼らは心からなる礼拝をささげたのである。

 もう一つ捉えておきたいことをあげたい。聖書によると彼は王の王、主の主であるお方であったが、両親の旅の途中で、また人間の住むところではない馬小屋で生まれられた。しかも、家畜が食べる時に使う飼葉おけの中に寝かされたのだ。このようにして、主イエスは生まれながらにして赤子の時から人生のどん底を味われた。その事実が指し示すことは何であろう。それは、このようなお方であってこそ、人の世の不幸と不運に泣いている者を慰め人生の逆境に悶え苦しむ者を励まし立たせることができるということなのだ。

 しかも、家畜の糞尿のぷんぷんするただ中に来てくださったということは、信仰をもって迎えさえすれば過去と現在にどんな汚れた心であったとして主はそれを責められるお方ではなく、それを赦しきよめてくださることを示している。そして、その人の心に主としてお住みになられ、私たちを天的な喜びに満たしてくださるのである。

 数年前、心の歌を歌う沖縄の上原令子さんを迎えてコンサートをしたが、その中の選曲で「私さえ」というのがあった。これは彼女の体験から生まれた魂から溢れるイエスさまに対する感謝の愛の告白である。

①もう二度と あなたのもとへ 戻れないほど 背をむけて もう二度と あなたの名を 呼べないほど 悲しませて

 そんな私さえ 愛してくれるのは あなただけ そんな私さえ 愛してくれるのは あなただけ 

②もう二度と あなたの愛に 帰れないほど 心冷たくて もう二度と あなたの声が 聞こえないほど 遠く離れて

 そんな私さえ 愛してくれるのは あなただけ そんな私さえ 愛してくれるのは あなただけ

 さあ、私たちも預言の成就としてこの世に来てくださった救い主イエス・キリストの愛の懐に抱かれて本当の安心をいただこうではないか。平安、喜び、満足、感謝。それは救い主イエスさまのところにある。
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