| 「連歌」というものがある。二人以上の人が、和歌の、上の句(5・7・5)と下の句(7・7)とを互いに詠み合って、続けていく形式の歌のこと。室町時代に山﨑宗鑑(そうかん)という連歌師がいた。ある時、公家が上の句につけて、どんな歌にでも、なるほどと思わせる便利な句があると言われ、自分たちのような卑賎(ひせん)の者は、「それにつけても金の欲しさよ」と笑いながら詠んだという。 ある方が、和歌だけではなく、ありがたいはずの聖書にも当てはまると言われたことがあった。「神は愛なり」、「それにつけても金の欲しさよ」。「主はわたしたちのために命を捨ててくださった。それによって愛ということを知った」、「それにつけても金の欲しさよ」という具合である。何か申し訳ない気持ちになるのは一人だけではあるまい。 しかし、現実問題として、私たちはこの世にある者として、そういう世俗的な考え方に自らをいつの間にか引き下げていることはないだろうか。聖書を読んだり、メッセージを聴いて、信仰の世界と現実の生活を引き離してしまうようなことはないだろうか。そして、結論として「それにつけても金の欲しさよ」と世俗のことで終わってしまうのである。 さて、この7節の御言を読む時、私たちの反応は如何なものか。「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものではないことが、あらわれるためである」とある。ここでパウロは、土の器と宝を対照している。 土の器としての人間は、脆く弱いものである。その後にも記されているように、人は時として四方から患難を受け苦しめられ、迫害され、絶えず死に渡されるようなところを通される。 16節のように、外なる人は滅びる(衰える)。これは肉体的な意味であろう。だがそれだけではなく、私たちの心も弱く、失望しやすく、傷つくものである。 けれども、パウロは「わたしたちは落胆しない」と言う。これらに打ち勝つことができることを信じていた。それは、弱く脆く欠けのある内なる人と共にある「内なる宝」があるからだ。その宝の力を信じていたのである。 内なる人とは、人間の内面的なもので「霊性、知性、感情、良心」などであろう。これらのものが、聖霊によって健全に活動していく時に、私たちは「内なる人は日ごとに新しくされていく」のである。 さあ、私たちは、年の始めに、土の器の部分に目を向けるのだろうか。それとも内なる人と共にある宝に目を向けるのであろうか。 私たちは、前者に心とらわれる傾向があるように思われる。「聖書を読んでいろいろなよいことを教えられるけれども、老い一つを考えてみても現実は聖書に書いてあるようにうまくいかない。実際、クリスチャンが神を信じていても多くの神を信じていない人たちと同じような衰え行く心身の闘いがあり人生の終わりも厳しい。ならばちょっでもお金がたくさんあれば、良い施設や病院に入って少しでもましな人生の終わりを迎えることができるのではないか」と言うだろうか。それとも「現実生活は、確かに様々な困難がある。しかし、神の御言を信じて、神を頼りにして生きていこう。私はクリスチャンの特権を与えられているのだから」と言うだろうか。 パウロは、18節のところでこう語っている。 「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ、見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである」と。 目に見えないものはお金では買えない。ノルーウェーの詩人アルネガール・ボルグは、「お金」という詩をつくっている。ご紹介しよう。 食物はお金で買えるが、食欲は買えない。 薬はお金で買えるが、健康は買えない。 ベッドはお金で買えるが、睡眠は買えない。 化粧品はお金で買えるが、美しさは買えない。 別荘はお金で買えるが、心地よさは買えない。 快楽はお金で買えるが、喜びは買えない。 友だちはお金で得られても、友情は得られない。 労働者をお金で雇うことができても、忠実さは得られない。 静かな日々はお金で得られても、平安は得られない。 お金で買えないものは、みな無代価で与えられる神の賜物なのである。 さあ、永遠につづくものに大いなる価値を見出そうではないか。 |
題「見えないものは永遠に」第二コリント4:16~18
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