| 先週、最後の晩餐についての学びで過越祭の食事の第3の杯まで主は飲まれたが、第4の希望の杯は飲まなかったことを見てきた。だがそれは十字架そのものが4つ目の杯となりその贖いの御業こそ希望であったことを学んだ。 さぁ、今朝はオリーブ山にあるゲツセマネの園での主の祈りについて注目したい。 最期の晩餐を讃美と祈りにより締めくくられた主イエスは、弟子たちと共に、神殿の羊の門、あるいはステパノの門と呼ばれている門を通り、エルサレムの町から郊外へと出て行かれた。ヨハネによる福音書18章によると、一同は、ケデロンという渓谷の向こうに行かれたと記されている。この谷はキデロンの谷とも呼ばれているが、その昔ダビデが自分の息子であるアブサロムに背かれ、命を狙われている時、このケデロンの谷を渡ったことが旧約聖書に記録されている。彼は少数の家来たちを連れて、泣きながらこの谷を通った。そして、今度はダビデの子であるイエスが、エルサレムを離れて、同じ道を通りゲツセマネの園に向かうのである。 そこはオリーブ山であって、東側の傾斜にはいくつも園が設けられていた。その一つがゲツセマネの園である。その所有者は、金持ちであったマルコの母であったのではないかといわれており、ペンテコステの日に120人ばかりの者たちが集まっていた場所(アパ・ルーム〖二階座敷〗)も彼女の所有であった。主と弟子たちは、彼女の善意と愛により彼らのおり場所として、この園を用いていたようである。聖書に「いつものようにオリーブ山に行かれた」とか「イエスと弟子たちとがたびたびそこで集まったことがある」と記されているとおりである。 さて、「ゲツセマネ」とは、どういう意味であろうか。それは「油搾り」である。オリーブ油を実から抽出するため圧搾機にオリーブの実を入れて砕いて油を搾り取るのだ。そういう作業場も近くにあったのであろう。それは、これから主の「その汗が血のしたたりように地に落ちた」(ルカ22:44)とあるように、主イエスが祈られる場所としてふさわしいように思われる。 ここで主イエスは、これまでになかったほどの壮絶な七転八倒の祈りをなさる。ユダヤ人は、普通祈りの際には立って祈る。しかし、主はここであまりの迫りくる重圧のゆえにうつぶしになって転げまわるように祈られたのである。 「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(39,42,44節)と三度も祈られた。主が飲み干さなければならなかった杯は、人間の罪に対する神の怒りそのものである。人間の罪を憎む神の呪いなのだ。 今、主が背負おうとしている罪は、人類の祖アダムが犯した罪、アベルを殺したカインの罪、ノアの時代に地に満ちていた人間の暴虐の罪、ソドム・ゴモラの淫乱の不道徳の罪、人類史上はじまって以来の罪が、たったお一人の主イエスの上に重くのしかかってきているのである。アッシリヤのティグラトピレセル王、サルゴン王、バビロンのネブカドネザル王などの覇権国家の独裁者の罪、ローマ帝国の皇帝どもの罪、また、ここに至り主イエスの捕縛後の大祭司、律法学者、宗教家たちの罪、主を嘲笑し弄び十字架につけたローマ兵のたちの罪、さらには近世のヒトラー、ムッソリーニ、スターリン、毛沢東、ロシアのプーチン、中国の習近平、北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)などの罪、各イスラム過激テロ組織(アルカイダ・タリバン・イスラミックステート・ハマス・ヒズボラ・ヌスラ戦線・トルコのクルド労働者党(PKK)・イエメンのシーア派武装勢力フーシー派など)の罪も、ありとあらゆる罪が、大山のごとく主の上に積みあげられているのだ。 イエスは、それをまるでじょうごのようにそれを全部飲み干さなければならなかったのである。 死ということを考えると、私たちの常識では死ぬとは、心臓が止まり肉体の活動ができなくなること程度ではないだろうか。しかし、本当はそうではない。 聖書が語るのは、死とは、聖なる義なる神により、人間が罪のために永遠の裁きと呪いを受け続けることなのである。もう一度いう。永遠の裁きと呪いを受け続けることである。永遠の滅びとは、裁かれた人間の霊が消滅することではない。死後の世界においてもはや「死ぬことができない」で、ゲヘナ(地獄)の世界で永遠に「死を生き続けること」なのだ。 そこで、過去の歴史においてこの神の審判が怖いものだから自分勝手に都合のよいように聖書解釈をして地獄などないことにしようということで異端者が生まれてきたのである。またヒューマニズムの万民救済説で、神は愛なのだから最終的には人間はすべて救われるに違いない。悪魔さえ救われるという考えに脱線する人たちも現れた。私たちは決して騙されてはならない。 私たち人間は、罪というものの恐ろしさを知らない。「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23)とある。その意味は今申し上げたとおりである。日本人の宗教観の脆弱さ、希薄さ、罪と死に対する認識が足りないことを思わされる。 特に性善説に立っているのではなかろうか。これは神道の影響であろう。人間の心の汚れなどお祓いで簡単に払拭できると考える。すると下から善なるものが出てくるというのである。だが現実はどうであろうか。そのような人類歴史があるのか。実際そのような素晴らしい世界を人間がつくってきたといえるのか。そうではあるまい。 私たちは、本当の人間の実態を直視し認めなければならないと思う。ゲツセマネの園において、今や救い主イエス・キリストは呪われた者となられた。罪なきお方が、神に呪われるということほど、不条理なことはない。人間の世界に起こる悲劇などたいしたことはない。しかし、主が受けようとしている悲劇は、神ご自身の驚くべき悲劇なのである。 それは、あなたと私の救いと贖いのためなのだ。 どうか、この箇所を教会学校夏季キャンプや青年キャンプの寸劇のようなものにしないでいただきたい。主はここでお一人壮絶な霊的な戦いに耐えられた。弟子たちは眠りこみ役に立たない。そこで、ルカ22:43によると「み使いが天からあらわれてイエスを力づけた」とある。なぜこの主の戦いに助けが必要であったのか、それは、神の御心がなるかならないか。神が勝つか、悪魔が勝つか。悪魔の脅しが勝つか、神の愛が勝つかの人類の存亡に関わる重大な戦いであったかのである。おそらく悪魔は、主の思いの中に働きかけて十字架以外のここで狂い死にさせようとしていたのではないだろうか。それでは主の救いにはならない。 けれども、イエスの祈りは確信に至るのである。詩篇57:7にタビデによりこう歌われている。 「神よ、わたしは心に定まりました。わたしの心は定まりました。わたしは歌い、かつほめたたえます」と。 その意味で主はここで「どうか、みこころが行われますように」と祈られ、これからの一切のことを父にお任せになられたのである。これは「父よ、この苦き杯を全部飲み干します」という宣言であったのだ。その証拠にイエスは、頼りにならない眠りこけている三人の弟子たちを受け入れ許しこう言われた。 「まだ眠っていいるのか、休んでいるのか。見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ。立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」(45,46節)と。一言の恨みも憎しみも、憂いも悲しみも迷いもない。主は毅然としたお姿で十字架の丘を見据えておられるのである。 これは、主が私たちのために勝利されたことを示している。そして、ゲツセマネの勝利が、真の十字架の勝利であることを教えられる。 ルカ11:1以下のところで、弟子の一人が主に対して、「主よ、わたしたちに祈ることを教えてください」と導きを求めた。そこで「主の祈り」を教えられたのであるが、主は「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」(マタイ6:10)と祈りの模範をお示しになられた。そして、弟子たちだけではなく、ご自身が十字架を前にして本当にその祈りを実行されたのである。人間の決心も決断も実際は弱いものだ。どんなにいきがっても弟子たちと同じように悲しみの果て眠りこんでしまうのが関の山であろう。 しかし、私たちが、自分の思いのままではなく「神の御心のままに」と、神に全くお任せするならば、神の助けと導きが与えられることを信じるのである。これは究極の祈りである。しかし、主イエス・キリストのような大いなる事柄には関わることができなくても、お互いの人生における試練、苦難に際して、信仰によって適用できるのではないだろうか。「主よ、御心を成したまえ」と。 |
題「ゲツセマネ」マタイ26:36-46
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