題「隠れたこと」マタイ6:1-4

 今回のタイトルのイメージで「ドキッ」として否定的に捉える場合は、ルカによる福音書8章17節を思い出すのではないだろうか。「隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない」とある。

 「隠された罪」の指摘として受けとめ何か腹をさぐられるようで嫌な印象を持ってしまうかもしれない。そして、それに関連づけて、箴言28章1節を思い描き「悪しき者は追う人がないのに逃げる」とあるように、最初からこのタイトルに抵抗を感じてしまうこともあるのかもしれない。

 しかし、今日のメッセージは、隠されている罪の話ではなく、「隠された良きもの」に関する内容である。ぜひ安心して聞いていただきたいと思う。主の祝福が豊かにありますように。

  さて、主イエスは、この1節から4節において信仰生活での「施し」について教えておられる。
 「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることができないであろう。だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」と。

 「施し」とは、対人関係の中で表される「義の業」のことである。原語では、「憐れみ」から出ている言葉で、旧約では、ケセド「慈しみ、誠実」という言葉で表されている。しかし、それは上から下という関係で、施す側が優越感を持ち、施される側が劣等感をひき起こすようなものではないはずである。間違った金持ちと貧乏人の関係のようなものではない。 一般的に、「憐れみ」を与える側と与えられる側の問題があると思う。

 与える側の問題は、高いところに立って「おいっ くれてやるぞ」という与え方である。時には売名行為。あるいは、一時の自己満足。相手と距離を置いて、自分が何も痛まないで、上から投げて与えるような施しである。一方、憐れみを受ける側の問題は、自尊心だとか、気位い。そんなに人様から簡単に憐れみなどを受けたくない。誰にも憐れまれたくない。憐れみを受けると後々厄介だ。後が怖い。そういう人間の弱さからくる限界や悲しさが両方に残っているのではないだろうか。

 「憐れみ」はそんな訳で、多くの人たちは、憐れみなんて、女々しい。憐れみは弱い世界の言葉で表面を飾るだけのもので根本的な解決にはならない。こういう考えがついて回ることがある。では、ここで主イエスが言われた「憐れみの施し」(憐れみの義の業)は、その程度なのであろうか。答えは、そうではないということである。

 施しの表現の仕方、行い方を無視し無分別に行うような施しであってはならない。行為ではなくその心、その本質が問われているのである。だがユダヤの律法学者やパリサイ人などはその点において全く間違っていた。

  主は彼らのことを、「偽善者たち」(マタイ23:13,23,25)と呼んでいる。「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである」と繰り返されている。彼らは、すべて人に見せるためにしているのである。丁度、舞台の役者のようだ。ご存じのように、人間のことをギリシャ語で「ペルソナ」という。この言葉が派生して「旅役者」という言葉が生まれたと聞く。悲しきかな、アダムの原罪を負う人間は、役者のように自分ではない他の人間を演技して生きる偽善者であるというのが、昔の人たちの観察であったのだろうか。

 ここで主が言われた「人の前でラッパを吹く」とは、こっそりすることではない。当時、エルサレムの神殿の賽銭箱は13のラッパのかたちをした受け口が作られていて、よく大金持ちが、これ見よがしに施しの献金を投げ入れることがあったそうである。その間違った施しを「ラッパを鳴らす」に重ねられているのだろう。

  大事なことは、真実な愛と信仰による施しが、麗しい隠されたものとなるためには、まず、第一に、「自己宣伝しないこと」である。自分を宣伝して何になるのか。傲慢そのものであろう。

 第二は、「右の手のしていることを、左の手に知らせないこと」である。自分の善行や施しが他者に知られないように気配りすることだ。それは自身が良いことをしたことを忘れてしまうことである。先週のペテロの失敗の出来事を思い出す。「ごらんなさい。わたしたちは、いっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」(マタイ19:27)。彼はしっかり自分の行いを心に刻んでいたのだ。しかし、主は、右の手でした良きことを左の手で心のノートに記録することはしてはならないことを教えておられる。

  第三のことは、隠れたことは、「表面に出てこないので地上で報われるものではないこと」である。 しかし、偽善者たちは、報いを受けてしまっている、と主は言われる。「偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前で、ラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている」(2節) 結局、彼らは物を売買するように施しの報いを地上で受けたいと思っていたのだ。

 第四は、神の報いの約束である。この世の誰も評価し認めてくれなくても「隠れた事を見ておられる父が報いてくださる」(4節)のである。これは、来世のために新興宗教やカトリックが主張するこの世で功徳を積むことではない。「功徳」とは、本来見返りを求めないことだが、結果として自分や先祖が幸せになることを期待して行うことなのである。本末転倒である。ある人たちが言うように、自分がした地上の良き業によって自分の罪や過ちが大目に見られたり、赦され免除されるようなことはあり得ない。

 父なる神は、私たち罪人のために、独り子イエス・キリストを惜しまず与えてくださった。私たちが滅びゆくことを惜しんでくださって、最も良きお方を与えられたのだ。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは、御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。このような父なる神が、今も私たちのことをご覧になっておられる。「神は愛なり」とあるが、今も昔も変わらず、愛を注いでくださっている。

  私たちは、こういう父なる神の御前にいることだけを覚えようではないか。自分の義を人々の前で知らせる必要もない。また、地上での報いをもの欲しそうに待ち望む必要もない。私たちのするすべての営みは、隠れた事を見ておられる父なる神の前だけで行うものである。父なる神の深い御心によって定められたものだけを待とうではないか。
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