| 中国奥地宣教協会(チャイナ・インランド・ミッション、現在はOMF)の創始者、英国宣教師ハドソン・テーラーは、「主イエスは再び来られる。そしていつ来られるかわからない、という大いなる真理に対して神が私の心を開いてくださった時を、私ははっきりと記憶している。私はそれほどたくさんの本を持っていたわけではないが、この真理が示された時、本棚の中を調べた。その他の持ち物を調べた。主が来られた時、私が十分な申し開きをすることができるかどうかを確かめるためである。その結果、まもなく何冊かの本がなくなり、何着かの衣服も姿を消した」と語っている。 偉大な米国伝道者D・L・ムーディーは、「私は説教をする時に必ず、この次の説教までの間に主がおいでになるかもしれないという思いにかられる」と言うのが常であったそうだ。 有名な英国の牧師、聖書学者G・キャンベル・モルガン博士は、「私は朝仕事を始める時には必ず、ひょっとすると主が私の仕事を妨げ、ご自身の仕事を開始されるかもしれないと思う。私は死を望んでいるわけではない。主を待ち望んでいるのである」と言った。 この三人の霊的指導者の語っていることは、今日の私たちクリスチャンの生き方の模範ではないだろうか。 柘植不知人師は、再臨について多くを語られることはなかったと聞くが、それは再臨がどうでもよいことではなく、おそらく事情としてその時代背景があるのではないかと思う(一部の過激な行き過ぎた再臨待望論の影響を危惧した)。 さて、マルコによる福音書13章5節から主によって終末時代の預言と警告が示されている。「人に惑わされないように気をつけなさい」と。14-23節は、大患難時代、エルサレムの滅亡とその予表する世の終わりについて記されている。24-27節は、栄光の主の再臨と地上顕現のことが語られている。23節で「だから、気をつけていなさい。いっさいの事を、あなたがたに前もって言っておく」と患難時代の後のことも預言された。天変地異が起こって、日や月は光を失い、天の異常な現象とともに、主が大いなる権威と栄光をもって再び来られ、大患難時代を通過してきた選民の残れる者を集めて救われるのである(24-27節)。 使徒パウロが、ローマ11章26節で「こうして、イスラエル人は、すべて救われる」と言っているが、この時のことだ(キリストを十字架につけてか長い間、ユダヤ人はキリストに背を向け逆らい続けてきたが、ついに民族レベルで主イエスを救い主として信じ神に立ち返るのだ)。 神の言は決して滅びず、必ず成就する。「これらの事が、ことごとく起こるまでは、この時代は滅びることはない」(30節)。 主は重要な言葉を繰り返しておられる。「気をつけなさい」(5節,9節,23節,33節)。「目をさましていなさい」(33節,37節)。それほどに注意深く気をつけて準備していないと再臨を待つことができないという警告であろう。 さて、再臨待望のために心に刻みたいことがある。四つあげたい。 ①再臨はいつ来るかわからない(32節)。「その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない。ただ父だけが知っておられる」。救い主は、何年何月何日に出現するとか、いやすでに救い主は、中国に来た、韓国に来た、米国に来た、などと主張する人々がいるが、もっての外である。どれほど多くの人々がこういうペテン師に騙されてかけがえのない人生を台無しにしたことか。しかし、一方で主がいつ来るかわからないので、クリスチャンが日常生活に埋没して再臨に思いを向けなくなる場合もあろう。平凡な日々の生活をどう思慮深く歩むか備えが必要である。主の僕として大いなることを求めるのではなく、小さなことをコツコツと忠実に生活をすることが肝要であろう。 ②思いがけない時に来る再臨(33節)。「その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである」。詩人水野源三さんの「主よ来たりたまえ」は、再臨待望の心をよく表していると思う。 1.主よ来たり給え 主よ来たりたまえ リンゴの白い花 吹く風に散る朝 カッコウが静かな 林で鳴く朝に おもいがけない時 来られてもよいように 主をお迎えする 備えをさせたまえ 2.主よ来たりたまえ 主よ来たりたまえ 澄みわたった空に もみじうるわしい朝 竹の葉につもった 雪が光る朝 思いがけない時 来られてもよいように 主にお会いする 備えをさせたまえ 3.主よ来たりたまえ 主よ来たりたまえ 尊き姿を 心にしのぶ朝 たしかな御約束 成ること待つ朝に 思いがけない時 来られてもよいように 主に喜ばれる ものにさせたまえ この詩によってある言葉を思い出した。「不断の絶えざる臨在信仰」と言われているが、日々の敬虔な態度と信仰生活を意味しているように思われる。 ③最後の審判の前日だと思って生活すること(ローマ14:12「わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである」《申し開き・自分も裁かれるという意》黙示録20:12「死んでいた者が、大いなる者も小さな者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書に書かれていることにしたがって、さばかれた」《裁き》)。今日、恵みによって与えられた救いによる安心と平安は、生活が怠惰であることを奨励してはいない。私たちには、適当な緊張感と刺激的な毎日が必要であることを教えられる。 但し、最後の審判でのクリスチャンの裁きは、滅びゆく者たちとは全く異なっている。滅びゆく者たちにとっては、ゲヘナ(地獄)行の確定であり恐怖の時であろうが、私たちにとっては、ヨハネ3章16節「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」とあり、5章24節「わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることなく、死から命に移っているのである」とあるように、原罪と罪過に対する裁きではなく、神の国(天国)での「どのような報いを受けるか」の裁きである。神のみ前に忠実であったかどうかが裁かれるのであろう。 ④世の終わりを欲しない性《さが》(マタイ24:31「彼(主)は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう」《人の都合ではなく神の計画で選民が世界から呼び集められる》、ヤコブ4:13-14「『きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう』と言う者たちよ。あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。むしろ、あなたがたは『主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう』と言うべきである」《人は自分の人生計画を放したくない。だが御使のラッパによってそれが妨げられる。それだから、ある人たちは、世の終わりはないと主張したい》)。 さあ、年の始めに終わりのことは考えづらいのではないだろうか。だがキリストの再臨は、すべての終わりではなく、新しい世界の始まりでもある。「新天新地・神の国・天国」は確かに来る。それは喜ばしいお方との出会いの時でもある。聖書の世界でしか知らない救い主イエスと私たちが顔と顔を合わせて相見えることができるのだ。麗しいあのお方との感動の瞬間を与えられるのである。これは大いなる楽しみではないだろうか。この出会いを楽しみにしながら再臨を待望するのは如何か。 2014年に公開された「天国はほんとうにある」という映画がある。一般上映をされたことを覚えておられるだろうか。この作品は2010年のベストセラーになった実話に基づいて製作されたものだ。トッド牧師の息子3歳のコルソン君が、虫垂炎の緊急手術を受け危篤状態の中で体験したことがモチーフになっている(いわゆる臨死体験ではない)。危ういところから助かった後、コルソン君が不思議なことを口にしたことが衝撃的であった。生きながらにして天国に行ったというのである。そして、彼が知り得ないことを告げたのだ。彼には、生まれてくることができなかった流産した姉がいた。また自分が生まれる前に亡くなった祖父がいた。なんと天国でこの二人に会って家族の関係を知ることができたというのだ。 そして、さらにイエス・キリストと出会ったと証した。コルソン君が証するイエスの顔は、天才画家アキアネ・クラマリック(彼女も神秘的な体験を5歳半の時にしている。天国を見たという)という少女が8歳の頃に描いた肖像画とそっくりであることがわかった。彼らに横の連絡はないし一度も会ったことがない。コルソン君は確信を持って、「あれがイエスさまだよ。あの人と会ったんだよ」とアキアネが描いた絵を指さすのである。 それは、色白の白人ではなく、典型的なユダヤ人そのもので精悍でやさしい目をしている。まさに聖書のイエスさまであった。 父親のトッド牧師は、息子の語る言葉を信じたという。皆さん、あなたも本物の主イエスにお会いしたいと思われるであろう(コルソン君とアキアネさんの見たイエス像はともかく)。その感動の一瞬を夢見て楽しみに日々の地上生活を信仰によって全うしようではないか。 |
題「年の始めの再臨信仰」マルコ13:23-27
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