題「人間をとる漁師」マルコ1:16-20

 復活の主を崇めハレルヤ! マルコによる福音書は、マルコと呼ばれるヨハネが記録した。パウロの同労者バルナバのいとこである(重要な集いのためによく家を提供していたマリヤの息子)。伝承によれば、AD60年頃、ローマにおいてペテロが捕らわれていた時、マルコが彼の指揮のもと記したものであると考えられている。マルコはペテロの通訳であり、ペテロの思い起こすことを正確に書くことができた。また、ローマ人や異邦人の読者を対象にまとめられたとされている。

 この書は、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」(1節)という言葉で始められる。イエス・キリストが救い主であることを宣言する物語の幕開けである。「福音」とは、「良き知らせ」「神の言」でもあるが、14節、15節によると、それは主の宣教の言葉であり、主の来臨のゆえにもたらされた「神の国の到来」を告げるものである。福音の中心は、どこまでもイエス・キリストご自身である。

 神は、全人類の救済を実現されるためにご計画を立てられたが、今やそれは成就されようとしていた。その道備えとして、神はバプテスマのヨハネを遣わされた(2-8節)。

 「預言者イザヤの書に、『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの道を整えさせるであろう。荒野で呼ばわる者の声がする、【主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ】』と書いてあるように、バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪のゆるしを得させる悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていた。そこで、ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。このヨハネは、らくだの毛ごろもを身にまとい、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。彼は宣べ伝えて言った、『わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値打ちもない。わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう』」とある。

 そして、主イエスは、公生涯の働きの備えのために、神の定めによりヨハネからバプテスマを受け聖霊に満たされて、ガリラヤから神の福音を宣べ伝えられた「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(15節)と。

 今朝は、その後のことについて注目したい。主は、ご自身のメシヤ(救い主)としての使命を果たされるために順序立てて事を進められた。それは、まず働き人をお召しになることであった。16節から20節のところで、主は、シモンとアンデレとゼベダイの子ヤコブとヨハネを弟子として選ばれたことが記されている。

「さて、イエスはガリラヤの海べを歩いて行かれシモンとシモンの兄弟アンデレとが、海で網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた、『わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう』。すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。また少し進んで行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで、すぐ彼らをお招きになると、父ゼベダイを雇い人たちと一緒において、イエスのあとについて行った」。

 「信ぜよ」と言われた主は、彼らに「わたしについてきなさい」(17節)と命じられた。ここで教えられることは、信じることは従うことであることがわかる。笹尾鉄三郎師の「信じなければ、従えないからねえ」という言葉を思い出す。

 「福音を信じる」とは、多くある宗教の一つとして信じるのではない。ある大学が大学生を対象に宗教観調査をしたそうだ。大学生の全部の意見が15段階に分けられ、その第一級の最も好意的な意見が「宗教は、最も豊かな情操と最高の道徳観を養うから、人間生活に欠くべからざるものである」であったという。いいような反応であったと思われるが、これはあくまでも自分たち人間の幸福に役立つ手段でしかない。それはひとつの方便としてだけ不可欠だということだ。

 神が与えておられる「福音」とは、その程度の価値しかないのだろうか。そうではない。これは、人間の宗教心が生み出した下から出てきたものではなく、神からの啓示であり上から与えられたものである。そして、かけがえのない人間が永遠に生きるか滅びるかの重大な問題に明確な答えを与える神からのメッセージである。その意味において、主イエスは「この福音を信じて」「わたしについてきなさい」と言われたのである。

 そして、その命令の目的は、「彼らが人間をとる漁師」になるためであった。 勿論、ここですべての人に献身して牧師、伝道者、宣教師になれと命じてはいないだろう。しかし、すべてのクリスチャンが主を「証しする者になるように」語っておられるということは確かである。主が、ペテロたちに「人間をとる漁師にしてあげよう」と言われていることは興味深い。主は、ある時は本当に特定の人に「漁師が網で魚を海(湖)から引き上げるように」人を救う働きに召されることがある。

 主は、会社員、主婦、医師、弁護士、工員、母親、父親をそれぞれの場所から主のミニストリーのために召される。 主の福音の証人として召されるのである。直接的献身の場合は、それまでの自分の仕事を後にしてフルタイムで神学校などに進み訓練と学びを受け整えられることを求めていくことだろう。しかし、間接的献身者の場合もある。それぞれが置かれているところに身を置いて、信徒として我が身を主にささげて証人としてふさわしい養いを受け成長しながら主に用いていただくのである。

 直接、間接どちらであっても、漁師に向かって言われた人間をとる漁師という言葉の表現はおもしろい。漁師は、漁をする賜物と才能と能力がなければできないだろう。それは、私たちの持っている賜物、才能、能力を神が用いてくださるということをも意味しているのではないだろうか。けれども、ある方々は、自分には賜物、才能、能力はないと決めつけておられる。果たしてそうなのだろうか。

 ある方がこう言われた。日本人クリスチャンは、自分が日本人であることを感謝しているだろうか、と。日本人は、日本語が話せる。日本人の心を持ち、日本人の悩みや悲しみや苦しみがよくわかっている。これは何という賜物であろうかと言われるのである。そのとおりだと思う。私たちは、日本におりながら外国人に福音を伝えていくのではない(そういう働きもあるが)。たどたどしい日本語でも相手が日本人ならば通じるものではないだろうか。今年は、当教会としてハーベストタイムとして、個人伝道の小冊子「幸せな人生の法則」を用いて、人間関係がすでにある方々を対象に祈りの準備をしっかりして福音をお伝えいただきたいと願っている。良き時に学びの機会を設けるのでチャレンジしていただきたい。

 そういうこともできない信徒のおられるある教会では、特別集会や礼拝に新来会者が不慣れな教会に来られた際、教会員が自然体でお客様を心から歓迎し受け入れるようにしておられるそうだ。その何気ない教会員の受け入れ態度が新来会者によい印象を与えて安心してそこにいることができたので、引き続き教会に来られるようになったと言われていた。

 また、もし私たちが誰かのために悲しみ、泣き、喜び、笑うことができるとすれば、それはその方が証し伝道をすることができることの印だ。その方の他者への共感性が主に用いられることもある。問題は、わたしたちがいろいろなものを主に用いていただきたいと願うかどうかである。たとい私たちに不足があったとしても、主は言われる。「・・・してあげよう」(17節)と言われるのである。私たちもそのような器としてイエスさまにしていただこうではないか。

 「語り告げばや 語るごとに 心満ちたり 楽しさ増す この救い主 知らぬ者に われ呼びかけて 証しせばや
  語り告げばや 世を去る日まで 語り告げばや イエスの愛を」新聖歌434 2節
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