聖書を読んでいると、よく安息日のことが出てくる。今回も安息日に関する出来事について記されている。
ユダヤの宗教指導者たちは、ナザレのイエスに追従する人々が、安息日を軽視していることを問題にしていた(安息日に麦の穂を摘み労働したと見られた弟子たち。マルコ2:23-28、出エジプト20:8-11、「安息日を覚えて、これを聖とせよ・・七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざもしてはならない」)。同じ日、イエス一行がシナゴグ(会堂)に入ると片手の不自由な人がいたので、「人々【敵である宗教指導者たち】はイエスを訴えようと思って、安息日にその人をいやさるかどうかうかがっていた」(3:2)とある。ユダヤ人たちは、律法により安息日を厳しく規定していて「人を癒す」ことも労働とみなしたのである。彼らは、ここでイエスが律法違反をするかどうか様子を伺っていたのだ。
ユダヤ教の厳格な正統派の安息日の見解は、安息日には自分の生命をさえ守ろうとしなかった。たとえば、マカベアの戦い(ユダヤ人がセレオコス朝シリヤからの自立をするために起こした戦争。BC166年-BC142年)において防衛戦に破れた時、ユダヤの反乱者のある者たちは安息日に洞穴に逃げ込んだ。シリヤの兵士たちは、彼らを追撃した。彼らはユダヤ人たちに降伏の機会を与えたが、ユダヤ人は応じることはなかった。
歴史家ヨセフスは、こう記している。「ユダヤ人たちは、洞穴に逃げ込んだ際、その入口を塞ぐこともしなかった。労働することによって自分たちの命を守ることも拒否したのである。シリヤの兵士たちは、無抵抗な彼らを焼き殺した。ユダヤ人たちは、そのような危険に襲われても、自分たちの律法では安息日には休めと求められているから、その名誉を破ろうとしなかった」と。
正統派のユダヤ人の安息日に対する態度は全く厳正であり不屈であったのだ。
主は、それを知っておられたことであろう。しかし、当時のユダヤでは敬虔な信仰は失われて形式主義が横行していた。十戒の言葉に加えて、こまごまとした規定があり、人間的な解釈による抜け道も用意していたのである。
一方、イスラム教といえば、ムハンマドのコーランが聖典として知られている。過激なイランやタリバンなどにとっては、ムスリムのコーランは信者の生活規範として最も重要でありどこまでも厳守していこうとする。ところが、ムスリムの居住する国の事情により、例えば日本在住のイスラム教徒の中に、個人の信仰の価値観によって、禁忌であるはずの規定、酒を飲み豚肉を平気で食べるムスリムもいる。状況によっては教えに適当なアレンジを加えて、信仰の妥協と見えることを許しているところはユダヤ教とイスラム教は似ていると思われる。
この箇所での問題は、片手の不自由な人を安息日に癒すのは良いか悪いかであった。主は人を救うのだから良いとし、パリサイ人は安息日に片手の不自由な男の手を伸ばさせることは、労働であり安息日にしてはならない悪いことであるとした。主は、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」(4節)と言われた。
マタイ12章11-12節のところでは、主はこう言われた。「あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ちこんだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。人は羊よりもはるかにすぐれているではないか。だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである」と。実際、当時羊が誤って井戸に落ちた場合、その命を救うことは律法違反にならないと考えられていた。それゆえに主にとっては、人が健康であることは羊が救出される以上の尊い意味があることだとお考えになったのだ。
各福音書において、主が安息日に治癒行為をなさったのは7回ある。注意しながらそれぞれを読んでいくと、いずれも急を要するものではなかった。つまり安息日に癒すのではなく、次の日にしてもよかった。しかし、主はどうしてもその日に彼らを救いたかったのだ。なぜか。その動機は常に愛であったからだ。一日でも早く彼らを助けたかったのである。ところが、パリサイ人たちは、人間の必要より彼らの律法を重要視した。そして、彼らは、イエスが彼らの律法を破ることに関心があったので、片手の不自由な人を気遣うことは一切なかった。なんという宗教者たちの性根か。
実は、主にとって人が健康になるだけのことならば、他の日に癒してもよいことだろう。だが、何としても安息日にしたことによって主は大切なことを教えようとされた。安息日は、何も休むだけではない。その日には、神を礼拝し神に仕える日である。それぞれの魂に命をいただく日でもある。そもそも人が生かされるために安息日は設けられているのだ。イエス・キリストは、当時の律法の精神ではなく、形式的にかたちさえ行っていればよいとするユダヤの宗教界に、安息日の新しい命の回復を願っておられたのである。
今日、安息日はキリストの復活によって初代教会時代から土曜日から日曜日に変わっている。私たちにとって、この日が律法主義による礼拝ではなく、形式主義の礼拝でもなく、強制や重荷でもなく、週ごとの礼拝によって人が霊的に生かされ、新しい信仰の命が与えられるのである。 このようにして、クリスチャンは礼拝の場において神と共にあることを覚えて一週間を始めるのだ。さあ、今日も一人ひとりが霊的に整えられようではないか。
「まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝するべきである」(ヨハネ4:23,24)。
