題「得たりと信じる」マルコ11:12-25

 預言されていたように、主は子ろばに乗って王としてエルサレムに入城された。イエスは、神殿に入りすべてのものを確認するように見まわった後、弟子たちとベタニヤに行かれた。

 ベタニヤ村は、マルタ、マリヤ、ラザロの家があった。主は弟子たちと一緒にその家を拠点によく行動をしておられた。 最大の苦難の道を歩まれる段階に至って、イエスにとってそこは束の間の憩いの場所になかったのではないかと思う。

 翌日の月曜日、再びエルサレムに向かう道中、主は実のないいちじくの木を呪われた(12-14節)。「翌日、彼らがベタニヤから出かけてきたとき、イエスは空腹おぼえられた。そして、葉の茂ったいちじくの木を遠くからごらんになって、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉のほかは何も見当たらなかった。いちじくの季節ではなかったからである。そこで、イエスはその木にむかって、『今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように』と言われた。弟子たちはこれを聞いていた」。

 無神論者英国のバートランド・ラッセルは、「このようにいちじくの木を呪って枯らしてしまうような人を信じる気にはとうていなれない。仏陀とソクラテスを彼の上におくべきだと私は考える」と言っている。

 それは聖書に対する無知から出た言葉である。 季節ではないのに、実がないのはあたり前である。しかし、いちじくは、収穫期の一、二カ月前には、一個、二個の初生りの実がつく。その実がないということは、その木が実のない木とみなされていたようである。主は初なりの実がなかったので、この木は終わりだと見られたのである。イエスは空腹で腹立ちまぎれで木を枯らせられたのではなかった。そして、主のなさる奇蹟には必ず深い意味がある。

 葉ばかり茂らせて実のないいちじくの木は、形式的なユダヤの宗教に成り下がっていた当時のイスラエルを象徴的に表していた。そういう宗教は罰せられるのだ。15節から17節までの主による宮きよめは、そのことを示している。
 「イエスは宮に入り、宮の庭で売り買いしていた人々を追い出しはじめ、両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえし、また器ものを持って宮の庭を通り抜けるのをお許しにならなかった。そして、彼らに言われた、『わたしの家は、すべての国民の祈の家ととなえられるべきであると書いてあるではないか。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしてしまった』」と。私たちも信仰が形式主義にならないように気をつけなければならない。私たちに求められることが、二つあると示される。

 1.悔い改めの実を結ぶこと(マタイ3:8)。「だから、悔い改めにふさわしい実を結べ」
 2.御霊の実を結ぶこと(ガラテヤ5:22)。「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であっ
                   て、これらを否定する律法はない」

 しかし、それ以上に主が教えておられることは、信仰と祈りである(20-24節)。
 「朝はやく道をとおっていると、彼らは先のいちじくが根元から枯れているのを見た。そこで、ペテロは思い出してイエスに言った、『先生、ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが、枯れています』。イエスは答えて言われた、『神を信じなさい。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう』と。

 願うこと求めることを「得たりと信じる」ならば、必ず困難に見える大山のような問題も取り除かれるのである(ゼカリヤ4:7)。「大いなる山よ、おまえは何者か」とある。 そして、たとい信仰の結実なき者も実を結ぶ者とされることを示唆されたのだ。「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(24節)とは、そういうことを意味している。不信仰と不従順を悔い改めて出直しをする時に、主は至らない者、足らざる者を憐れんで整えて用いてくださり、信仰の実をお見せくださるのである。

 よく言われているように、信仰と祈りは、二輪の両輪のようである。「祈って信じる」「信じて祈る」のである。さらに忘れてはならないことは、神と我との関係において祈りを妨げるものを取り除けておくことである。祈る時、人の過失を赦す愛の心を持っていることが重要である(25.26節)。「また立って祈るとき、だれかに対して、何か恨み事があるならば、ゆるしてやりなさい。そうすれば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたのあやまちを、ゆるしてくださるであろう。もしゆるさないならば、天にいますあなたがたの父も、あなたがたを、ゆるしてくださらないであろう」と。

さあ、もう一歩信仰生活の前進をしようではないか。
目次