題「死後の世界はあるのか」ルカ16:19-31

 召天者合同記念礼拝に、ようこそお越しくださいました。心から歓迎いたします。

 さて、日本に帰化し、小泉八雲と名のったラフカディオ・ハーン(1850年-1904年)は、日本のいくつかの大学で英文学を講じる一方、「東の国より」「怪談」などで日本を欧米に紹介した。

 彼は日本人をこのようにいっている。「日本民族の道徳が伝統への服従であり、その根底にあるのが、『死者の支配』である。家長の権威も、家長の言動を決定する権威も、多くは先祖伝来の伝統にある。換言すれば死者が日本人の生活を支配しているのである」と。ハーンがやって来た明治時代の宗教的背景と事情を鑑みる時、そのように見受けられたことは自然なことであり、おそらく事実なのだと思われる。

 明治、大正、昭和、平成、令和と時代は動いてきたが、一部の日本人は、なおそういう伝統に生きている方々がおられるのかもしれない。だが、近代の学校教育の影響によって社会学的進化論的思想は、多くの人々に死後の世界、幽霊、祟りや怨念といった類のものを否定させているのではないかと思う。そして、多くの人々が「今のこの科学の時代に死者に支配されることなどあり得ない」と豪語するのである。人間は死んだらそれでおしまい。無であって生きている間が人の全てであると主張するのだ。

 さて、1957年(昭和32年)に発表されたカトリックの作家遠藤周作の「海と毒薬」という小説がある。それは、太平洋戦争中に、捕虜となった米兵が臨床実験の被験者として人体が使用された事件を題材とした物語である(戦時中における犯罪:九州帝国大学生体解剖事件、8人の米兵たちが人体実験で死亡。戦後GHQが乗り出して徹底的に調査した結果、その犯罪の真実が明らかになった。極東軍事裁判にかけられ加害者である関係者は、5人が死刑判決、18人は懲役刑、しかし、朝鮮戦争勃発により、米国が対日感情を配慮し恩赦により減刑され多くが釈放された。最高責任者の医学部教授(石山福二郎)は、独房で自死を遂げた)。

 このフィクションの小説は、良心的な医師の勝呂と神をも恐れない死後の世界などないとする医師の戸田の目を通して、彼らが事件に巻き込まれていく様子と、戦争という極限状況下で倫理観が崩壊していく様が描かれている。主題は、日本人とは如何なる人間か、神なき日本人の罪の意識であり、背筋が凍るような残虐行為がなぜ行われたかを追求し、人間の良心と運命の在り方を問う問題作である。一読をお勧めしたい。

 この大学病院で、人体実験手術を主導する権威者橋本教授が出てくるのだが、妻はドイツ人のヒルダである。彼女はクリスチャンとして看護婦の鑑として登場する。この教授夫人は神を恐れ死後の世界を信じていた。ある日医師の指示で治る見込みのない患者を注射で安楽死させようとする看護婦を留めて、自らの死生観を基に語る。「たとい治らない患者であっても、その人を他者が殺す権利などない。あなたは神を恐れなさい」と。この方は、死後の世界を信じ神を畏れかしこむ人物であったのだ。

 一方、神をも恐れぬ死後の世界もないとする医師戸田が印象に残る。彼は、人の評判や評価を特に気にする人であったが、悪いことは、人に知られなかったならば何でもやってもよいという考えを持っていた。小学校の時には、学校にあった昆虫採集を盗み、青年になった時には、従姉を犯した。また、同居の女中を妊娠させ医師であることで無理やりに堕胎手術をさせ捨てた。醜悪なことをしている自覚はあるが、人に知られなかったならば何をやっても良心の呵責など全くない人間であった。このように、先の教授夫人の生き方と戸田医師の生き方は、全く違っていた。なぜ違っていたかというと、この二人の死生観が、それぞれの人生いかに生きるべきかを決定づけていたのだと思われる。

 聖書に死後の世界についての言及がなされている箇所がある。それが今朝の聖書である。主が語られるこの話に二人の人物が出てくる。一人は金持ち、もう一人は貧乏人である。金持ちは、ぜいたくな服を身に着け、世の快楽だけを求めて遊び暮らしていた。彼は誰かを助けることなど毛頭考えたこともなかった。全く自分勝手な人生であった。一方、貧乏人は、ラザロという名の男であるが、全身の皮膚病に罹り、複数の野犬に膿を舐められ人間の尊厳も権利も何もなかった。この姿は、彼が死ぬのを待つだけの人間であることを示しているのではないかと思う。しかし、ラザロには神を信じる信仰があった。どんなに貧しくても、病気であったとしても、彼も信仰の父アブラハムの子なのである。

 そして、この二人がそれぞれ死んだ。これが二人の第一ステージの終わりである。

 次は第二ステージである。人の人生には第二ステージがあることを知らなければならない。すなわち、死後の世界があるということだ。金持ちは、ハデス(黄泉・ゲヘナ《地獄》に行く者たちの拘置所)に下り、ラザロは、パラダイス(天国に迎えられる者たちの待合所)に上げられた。金持ちは、黄泉にいて苦しみ悶えていた(22,23,24節)。

 「金持ちも死んで葬られた。そして黄泉にいて苦しみながら・・、そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先で水をぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』とある。これは黄泉の世界がどういう場所であるのかわかる数少ない情報であろう。死ぬことは眠るのではなく、意識がなおあり肉体があるかのように霊が感じ苦しんでいるのである。

 他方ラザロは、金持ちが目を上げるとそこにパラダイスにいるラザロがイスラエルの信仰の父アブラハムに抱かれて慰められている様を見た(22,25節)。「この貧しい人がついに死に、御使に連れられてアブラハムのふところに送られた。アブラハムが(金持ちに)言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている』と。パラダイスは、慰めの場所なのである。

  金持ちは、あまりの苦しさにラザロを遣わしてその指先を水にぬらし、自分の舌を冷やさせて欲しいと懇願するが、それはできないことであった(26節)。アブラハムは、金持ちに答えた。「わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろう思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない」と。決定づけられた場所移動はできないのである。

 そこで、金持ちは地上の五人の兄弟たちのことが心配になり、こんなところに来ないようにラザロを遣わして警告して欲しいと願うが、これもアブラハムは彼らには、旧約聖書(モーセと預言者)があるだろう、聖書に聴くようにと答えた(27-29節)。 すると金持ちは、ラザロが死人からよみがえったならば兄弟たちは悔い改めて信じるようになるとすがりついたが(30節)、アブラハムは、厳かな言葉を発した。「もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めに聞きはしないであろう」(31節)と。これは、後にキリストの復活を見ながら信じなかった多くの人々によって証明されている事実でもある。

 重要なことは、死んでからでは遅すぎる。私たちが生きている間、自由意志(神の創造の賜物。人間はロボットではなく自分で選ぶことができるのである)を働かせることができる間に、神の天国への招きに応えるかどうかが問われているということなのだ。

 金持ちは、度々与えられていた神の招きに応えることをしなかった。その彼の判断の誤りによりたいへんな結果を彼自身が引き寄せてしまったのである。too late !!!!!

 これは、非常に重大な神のメッセージである。私たちは、今現在生きている間に最高の幸せな選択をしたいものである。

「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることが人間には定まっている」(ヘブル9:27)。
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