題「偽りの仮面の罠」ローマ12:9

 「愛には偽りがあってはならない」とある。全くそのとおりである。

 「そこに愛はあるんか」という印象的な台詞は、テレビCMだ。大地真央と今野浩喜が出演する『凛とした女将シリーズ』でよく知られている。これは2018年から続く消費者金融のコマーシャルであるが、放送開始以来、CM好感度ランキングで上位ランクインし続けているそうだ。

 私たちも、あらゆる人間関係において、「そこに愛はあるんか」と問い続けなくてはならないと思う。 人生にとって愛は大切である。しかもその愛は誠実でなくてはならない。偽善や見せかけや裏心があってはならない。「愛、アイ、あい」と連呼しながら、相手への純粋な愛情ではなく、自身の欲望や目的を達成するために、愛しているフリをしてはならない。

  しかしながら、神の愛には偽りがあるはずがないのに、パウロは、わざわざ、「愛には偽りがあってはならない」と言う。この意味は、なお信者に内在する罪の残渣があって、偽りの愛の表現に誘われる可能性があるということだ。 つまり、クリスチャンは罪の誘惑に陥って神の愛の仮面をかぶってはならないということである。

 「偽りがあってはならない」と訳されている原語は、「役者として振る舞う」とか、「演技をする」という意味がある。 10節の言葉が、これを補っていると思う。「兄弟愛をもって互いにいつくしみ、進んで互いに尊敬しなさい」とある。尊い主イエスの御宝血によって贖い取られた神に愛されている信者たちは、もはや他人ではなくなる。自分の身体の一部として考えるようになるはずである。

 「目は手にむかって『おまえはいらない』とは言えず、また頭は足にむかって『おまえはいらない』とは言えない。そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互いにいたわり合うためなのである。もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな喜ぶ。あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である」(第一コリント12:21-27)と記されているとおりである。

 当然の結果として、神の愛による兄弟愛に生きるようになるのだ。それだから仮面を着けて偽善的である必要がなくなってしまう。素の自分で出ることができるのだ。

 先週、教会は「愛の共同体である」と申し上げたが、ある方々は、現実はそうではなく、そんなものは無力であると考えているかもしれない。実際はお互いの弱さや傷をお互いになめ合っているに過ぎない群れなのではないか、と言われる人もいるかもしれない。 けれどもそんなことが聖書のどこに記されているのであろうか。それは全くの誤りである。

 神の愛は地上の教会にとって無力なのではない。お互いの道徳的な弱さをただ黙認したり、お互いの未熟さを大目に見ているような共同体の交わりにしてしまってはならない。

「悪は憎み退け、善には親しみ結び」(9節後半)とあるように自らには厳しさがある。馴れ合いの悪い慣習が許されるお互いの関係が教会の共同体ではあるまい。 己には厳しく他者にはやさしいということである。これがお互いに育て合う神の家族としての人間関係であろうと思う。

 そして、「熱心で、うむことなく霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して呪ってはならない。だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい」(12:11-14,17-18)とある。

  そのためには、他者に対して「仕える心」を持ち内心から「うぬぼれ」を取り去らなければならない。それは相手が信者でも未信者でも変わりない。すべての人たちがその対象である。

 さらにこう語られている。「愛する者たちよ。自分で復讐しないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』(申命記32:35)と書いてあるからである。むしろ、『もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである』(箴言25:21,22)。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい」(12:19-21)と。

 キリスト教会は、どんな人に対しても対立したり、敵対関係を続けず、和解して仲良く平和のうちに過ごせるように努めるのである。しかし、人は誰かに酷い目に遭わされると、それに対して仕返しをせずにおられなくなる。そこで神の正義が行われていないかのように思い込み自分の正義感で裁こうとするのだ。これは神の主権に対する信頼の欠如である。「復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と主は言われる。

 私たちは、己の義に過ぎてはならない。「あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか」(伝道の書7:16)とある。「あなたは正し過ぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか」(新改訳2017)。この御言の真意は、極端な自己義認や知恵への自己過信が、かえって自分自身を滅ぼし、他者を裁く有害な偽善になりかねないので警告を与えているのである。

 全能者である正しい裁き主に委ねることだ。義人ぶって出張らないことであろう。義を装う悪の仮面もあることを知っていなければならないのではないだろうか。
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