題「主に仕える人」マルコ14:1-11

 キリストの十字架のご苦難を覚え、エルサレム入城前の土曜日に起こった出来事について学びたい。主イエスは、エルサレムを訪問される時、ベタニヤ村のマルタ、マリヤ、ラザロの家を宿泊所としてよく用いられた。ベタニヤは、エルサレムから約3kmのオリブ山の東中腹に位置する。このベタニヤの女マリヤの主イエスに対する油注ぎについては、マタイ26:6-16。ヨハネ12:1-8にも記録されている。

 マルコ14:1-2では、ユダヤ教の指導者たちがイエスの謀殺計画を企てていたことがわかる。14:3-9節は、ツァラアト(旧らい病)が癒されたシモンの家で食卓の場が提供され、主イエスと弟子たちがマルタたちと一緒に同席していた。シモンとマルタたちとは親友関係にあったか親戚であったと思われる。

 このシモンの家において歴史的に特筆されるべき事が起こる。マリヤは、主イエスがおられるこの所で、非常に高価で純粋なナルドの香油を主の頭に(足に、ヨハネ12:3)注ぎかけた。ヨハネ12:3によるとそれは一斤(300g)であり、マルコ14:5にあるように、それをお金に換算するならば300デナリ以上の値打ちがあった。これは労働者の300日分の日当に相当するものだ。

 シモンの家は、マリヤが注いだ香油の香で一杯であった。十字架を前にしてそれは緊張が解かれホッと一息入れる、温かく楽しい交わりのひと時になったと思われる。ところが、12弟子の一人イスカリオテのユダが、「なぜこの香油を三百デナリで売って、貧しい人々に、施さないのか」(ヨハネ12:5)と言った。こういう否定的な言葉は、周りに伝染するものだ。他の複数の弟子たちも憤って互いに言い合った。「なんのために香油をこんなにむだにするのか」(14:4)と。

 彼らの主張は、一瞬にしてその貴重な交わりを破壊してしまった。何とも気まずい雰囲気が重々しく支配した。沈黙は続き、マリヤはおそらく真っ赤になってうつ向いてしまったことだろう。そして、ユダに同調する冷たい視線が彼女と主イエスに集中した。

 このユダの発言自体は、実にクールで筋の通った正論である。彼は頭の回転が速くすばやく計算し数字を出して批判した。しかも、貧しい人々を助けるという博愛主義に訴えている。それは多数決を採るならば、過半数を獲得する、実に説得力がある意見であった。

 しかし、ユダと他の弟子たちのこれは最低の批判であった。一片の愛のかけらもない、愚かな発言であった。これこそ、否定的、消極的、破壊的批判の見本である。これほど人間の交わりを損なう態度はない。しかも、ユダについてヨハネ12:6によると、「彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからである」と記されている。

 12弟子たちは、本当のキリストの弟子ではなかった。真に主イエスに仕える人たちでなかったのだ。主はこれまで十字架による救いの日が近づくにしたがい度々弟子たちに語っておられた。この日もおそらく主は迫りくる十字架刑について語られたことだろう。

 だが弟子たちは皆譬え話程度にしか受けとめていなかった。ところが、物静かで思慮深いマリヤはそうではなかった。彼女は尋常ではない主の御目にその陰を認めたのである。そして、マリヤの感受性豊かな思いは熱く引き上げられた。すると彼女はいつの間にか救い主のために何の躊躇なくナルドの香油を主の頭に注いだのである。

 これまで、イエスの公生涯において職分としてのキリスト(ギリシャ語・油注がれた者・救い主の意)として任職の油は注がれていなかった。しかし、今やマリヤは、ここに至り文字どおり全人類の救いのために打ち立てられる贖いの御業である十字架刑の準備を実行したのだ。実に主に仕える人として精一杯の奉仕をしたことになる。

 一方、12弟子たちは皆主の僕として失敗した。イエスは、女をきびしくとがめる弟子たちを尻目に、「この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである」(14:8)とやさしく語られた。マリヤは、主イエスと心を合わせて仕える人として最高の奉仕者になったのである。

 しかし、弟子たちは、主の十字架を前にして、Time「時」をわきまえていなかった。キリストの死が目前に迫っているのだ。主の葬りの用意をするためならば300デナリの香油など無に等しいことではないか。

 Place「場」をわきまえてはいなかった。晩餐の流れの中で、すでに香油は主の頭と足に注がれている。これからという状況ではなかった。「覆水盆に返らず」である。

 Occasion「場合・場面・状況・心」をわきまえてはいなかった。その時、その場のキリストの心を配慮することもなければ、批判されるマリヤの心も考えていなかった。

 さらには、これは「妬み」による演技である。弟子たちの不信仰と愛のない不注意は、キリストの葬りの備えなど思いもつかなかったことだろう。心をこめたマリヤの愛の行為に、ユダは焦り、嫉妬し、思わず大声を出してしまったのではないだろうか。

 そして、ユダにおいては、これに加えて「不正隠し」の偽善の罪を加えた。自分が悪いことをしているので、それを隠すために、博愛、慈善を口にしているに過ぎなかった。

  さあ、私たちは、一言言わなければならないタイプだろうか。もしそうならば大いに気をつけよう。また、頭がよく切れて批判精神の旺盛なタイプだろうか。常に配慮と建設性を失わないようにしよう。

 弟子たちのこの大失敗を、私たちの反面教師としようではないか。そして、この受難節、四旬節、真のキリストの弟子としての仕え手として整えていただきたいものである。「弟子となしたまえ、わが主よ、わが主よ」と。

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